私の彼女は犬のようだ。



『with dog』



辺りに雑音はなく、人の気配だけがいくつもあった。


『My girlfriend is like the dog.』
何気なく書いた英文を消しゴムで消す。
意味などなかった。
文法の復習で英文を作っていたら、
ふとあの子のことを思い出しただけ。



犬のような、私の彼女。



土曜日の昼下がり、佐紀は図書館にいた。
あと一週間もしないうちに期末試験が始まる。
今までの点数を考えると、勉強せざるを得なかった。
特に英語なんて、授業で先生が何を喋っているかさっぱり分からない。


薄く書いたせいで跡形もなく消えた英文。
代わりに生まれたごみを、佐紀は傍らに集めた。
後でごみ箱に持って行く。
公共施設で消しゴムのかすを払うほど、出来ていない人じゃないつもりだ。


教科書とノートを広げたまま、ふっとため息をつく。
勉強するなんて自分には似合わない。
けれど、そうも言っていられない状況なのも事実。
二つの思いが綱引きをするたび、頭が痛くなった。
いや、頭痛の原因は、朝から聞きっぱなしのリスニング用CDかもしれない。



「佐紀ちゃんっ」



イヤホンを外した瞬間、耳元で嬉しそうに囁く声がした。
頭に重い感覚を抱えながら振り向くと、満面の笑みが返って来る。
噂をすれば影。
私の愛犬だ。


「みや」
「ごめんね、無理矢理会いたいなんて言って」
「いいよ。っていうか、こっちがゴメンだもん。勉強中で」


急いできたのか、雅は少し息を切らしていた。
脱いだコートを椅子に羽織らせる。
隣に座った雅の皮膚に、冷たい空気が纏われているのを感じた。
ひやりとした空気が、佐紀の右側を撫でる。



邪魔は絶対しないから、会いたい。
久しぶりに届いたメールを断ろうとは思わなかった。
ここの所予定が立て込んでいて、雅とまともに会えなかった。
会いたいのは、佐紀も同じだったからだ。
確かに、テストの点が落ちるのは困る。
けれど、雅と一緒でも、勉強くらいできる。



そう思っていたのだけれど。



「佐紀ちゃん?」



急に立ち上がる。
佐紀の手元を見ていた雅の顔が一緒に持ち上がった。
見下ろす雅の姿は小さく見える。


「どこいくの?」
「お昼。まだだから」


教科書、ルーズリーフ、筆箱。
広げられたそれらを、佐紀はてきぱきと片付ける。
目の奥が疲れたように重い。



一度切れた集中力を戻すのは難しくて、それが雅の前だったらなおさらだった。
雅が悪いわけではない。
むしろよくやっている方だと思う。
いつもは姦しく動いてばかりの口が、今日は全く開かない。
なってないのは、佐紀の方だ。



どうしても、雅と話がしたい。


どうしても、雅に触れてみたい。



愛しいものを愛でたいと思うのはストレートな欲求で、
「勉強しなきゃ」なんてしたくもない考えでは収まらない。
賢くなっていくのが分かるほど頭に詰め込んだ単語も、
雅が来てからはろくに覚えることができなかった。



「佐紀ちゃん待って」



コートを羽織る音と雅の小さな声を後ろに聞く。
静まり返った図書館を出ると、ようやくため息をつくことが出来た。
しとしとと寡黙に降る雨がかき消す。



「雨?」



耳を疑いながら歩を進める。
自動ドアが開くと、雨の音は少しだけ大きくなった。
それは、来るときはなかった音。



「はいっ」



視界の右側から傘の柄が飛び出す。
いつの間にか隣にいた雅が、こちらに差し出していた。


「傘、ないんでしょ? 一緒に入ろ」
「……ありがとう」
「どーいたしましてっ」


何が嬉しいのか分からない。
けれど心底嬉しそうに微笑んで、雅は傘を開いた。
その背中を何となく眺める。
つい黙り込んでしまった。


どうして、傘を持っていないことが分かったんだろう。
思った瞬間に、雅はこちらを振り向く。


「どうしたの?」
「あ、や、なんでもない」


雅は自分の右側を空けた。
そのスペースに佐紀は飛び込む。
やけに広いその空間に気付いて上を見ると、
あきらかに傘の皮がこちらに寄っていた。
柄を持とうとすると、さりげなくかわされる。


「持つよ」
「いいよ、大丈夫」
「でも入れてもらってるんだし」
「いいって。それより、そっちちゃんと持ちなよ」


佐紀の方から下がった鞄を指差して雅は言う。
開いた口から勉強道具が覗いていた。
濡れたら大変でしょ、と微笑まれる。
その笑顔が眩しくて、ありがとうと呟いた声が小さくなった。
雨の音にかき消されるほどの声なのに、
雅はうん、と返事を返す。



こういうところが犬っぽい。
しかも飼い主至上主義の忠犬だ。
自分のことより、人のことを優先させてしまう。
返ってくるのはありがとうの一言だけなのに、
それだけのために傘を貸し、平気で自分の体を雨に晒す。
風邪でも引いたら大変なのに。


「みやってさ」
「うん?」
「人に尽くすタイプだよね」
「えー、そうかな。そんなことないよ」


しかも、無意識。
意識してやっているのなら直させようと思ったけれど、
無意識なら何て言えばいいのか分からない。
下手に言えば、雅が自分との接し方を変えてしまうかもしれない。
自然体で接することのできない人になるのは嫌だった。


だったらどうすればいいんだろう。
人を大切にするのはとてもいいこと。
そしてそれは自分といる時、特に発揮される。
大切にされることをありがたいと佐紀は思う。
けれどその時の雅は自分に目がいかなさすぎて、少し心配になる。


ぐるぐると思考する頭は、勉強していたときより熱を持っている気がした。
寒い空気とのギャップを感じる。
それが原因か分からないけれど、佐紀は一つくしゃみをした。



「寒い?」



一定の速さを保っていた足が止まり、雅が佐紀の顔を覗き込む。
鼻をすすり、大丈夫と答えるけれど、その答えは聞こえていない。
佐紀に傘を持たせ、自分のマフラーをほどくと、雅は佐紀の首に掛けた。
覆う布のなくなった雅の首元は冷たい風に晒される。



ほら、また。



ひとつのくしゃみだけがきっかけで、あっという間に雅の方が寒そうになる。
くしゃみが風邪を引いたことを現しているわけではないと教えてあげたかった。
そんなに開いた首元じゃ、雅の方が風邪を引いてしまう。



もっと自分を大切にしてほしい。



私が大好きな人を、もっと大切にしてほしい。



白いマフラーが、佐紀の細い首に巻き終わる。
コートから見える雅の指は赤い。



「もうすぐ期末なんでしょ? 風邪引いたら大変」



風邪を引きそうなのはそっちでしょ。
喉元まで出そうになった言葉を飲み込む。


「大丈夫だよ、期末くらい」
「大丈夫じゃないの。うちが困る」


困る。
何が。
心の中で呟いたのが読まれたのか、雅は続けた。


「佐紀ちゃんの期末のために、うち我慢してるのに。
 佐紀ちゃんが期末で頑張れなきゃ、むくわれないじゃん」
「我慢? 何を?」



傘の柄をそっと取られる。
触れた指が冷たい。




「佐紀ちゃんと遊ぶことっ」




本当は勉強なんていいじゃん、って言いたいけど。
そんな言葉が、じっと見つめて来る目から伝わってきた気がした。
もっと自分を優先してほしいと願う思いが、伝わってきた気がした。


本当に私のことを考えてるんだ。
自分のしたいことを押さえ込んでまで。
そういう所が、忠犬だと言っているのに。



「だから、テストがんばってね」



寒さで鼻を赤くした雅が笑う。
ありがとうの言葉が欲しいのだと分かる。
いっぱいの愛しさを伝えて来る雅が愛しい。


行こう、と言った雅は、踵を返す。
けれど佐紀は歩き出さない。
首元が温かい。
雅の匂いがする。



「やめた!」



口を大きく開いたけれど、半分はマフラーで隠されてしまった。
でも、声はちゃんと響く。
まっすぐ前を見据えると、遠くに大通りが見えた。


「やめたって、何を?」
「勉強。今日はしない」
「え、でも、テストが」
「明日から勉強する。今日はみやの家行こ。行っても大丈夫?」
「大丈夫、だけど」
「じゃあ行こう。ここから近かったよね」
「でも」


うろたえる雅と、気にせず話を進めて行く佐紀。
着た道を真逆、雅の家の方向に歩き出す佐紀の手を雅が取る。


どうせまた、私のためを思って遠慮しようと思ってる。
遊びたいくせに。
言えばいいのに。


冷たい手を振りほどいた。
何故だか分からないけれど、笑っていた。



「飼い主の意見は絶対だよ」



一度振りほどいた雅の手を、今度は自分から取る。
力なく下がった手首を持ち、掌を雅の首もとに押し付けた。
小さな声を上げて、自分の手の冷たさに雅は飛び上がる。



あなたが自分を御座なりにするなら、私があなたを大切にする。


いっぱいの幸せを、毎日飽きることなくあげる。



愛犬を幸せにするのは、飼い主の仕事だから。



「飼い主、って」



口をぱくぱくさせる雅の手を引く。
今度は佐紀が傘を持つ。



「行こっ」



手始めに、雨の日の散歩から。





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