『Time of shine』





「えー!」
「ごめん、本当にごめん……」


絶句するえりかの前で、舞美はひたすら頭を下げる。
体の前で合掌までしている舞美の顔色は少し悪い。
色白の顔がもっと白く、今にも透き通り、消えてしまいそうだった。


「ごめんね、ずっと前から約束してたのに……」
「ううん、いいけど……。舞美、大丈夫なの?」
「うん……。少し熱あるだけだから……」


言われてみれば、少し息が荒い。汗ばんでもいた。
しかし顔が青白いのを見ると、『体調が悪い=熱がある』でもないらしい。
えりかは自分が発熱した時のことを思い出した。
赤く火照った額に冷却シートを張った覚えがある。



舞美が言う『約束』。
それは、数ヶ月前にえりかとの間に結ばれたものだった。



「誕生日は、夜まで一緒」



誕生日を舞美と一緒に過ごしたいと言ったえりかに、
舞美はそう、笑顔で答えた。
丁度テスト期間で帰りは早いし、思う存分二人で遊ぼうと計画もしていた。
最近の会話はえりかの誕生日のことばかりで、
昨日だって「楽しみだね」と笑い合っていたのに。


朝、口数が少なかった舞美を変だと思ったのだ。
授業中静かに立ち上がり、教師と一言二言喋ってふらふらと教室を出た、
舞美の後ろ姿を思い出す。
いつもと違い、か細くて頼りない背中。
駆け寄って抱き寄せたい衝動にかられたのだった。
もちろん、授業中で実際に出来るわけがなかったけれど。


えりかはぐっと息を飲む。
笑顔を作った。
少しでも残念そうな顔を見せて、舞美を傷付けるなんてことはしない。


「早退するんでしょ? 鞄持ってあげよっか」
「いいよ、そんな重病じゃないし」
「でも」


舞美が調子悪いなんて珍しいじゃん。
そう言おうとして口をつぐんだ。
舞美が苦しげに顔を歪ませたのだ。
握りしめたカッターシャツが、お腹の辺りで深い皺を作る。



変な気分だった。
いつも元気な舞美が、今こうして弱々しく存在している。
もちろん、風邪一つひかない無敵少女だとは思っていない。
けれど今の舞美はいつもより一回り小さく見える。
守ってあげなくちゃいけないような、細い感覚。


「ほんとに、ごめんね」
「いいから。早く帰って休むこと!」
「……意外」
「え?」
「えり、約束破ったこともっとごねると思ってた」


消えそうな笑いを浮かべながら、舞美は言った。
勉強道具を片付ける傍らで、えりかが顔をしかめる。



ごねてどうこうなるならごねてやる。
拗ねても、泣きわめいても構わない。
でも、現実はそうじゃない。
それが分からないほど子供じゃなくて。


それに、舞美も残念がっていると信じている。
熱があることを伝えるとき、自分を呼んだ声色。
つい顔に出た自分の喪失感を、逸らすことなく向かい合った瞳。
確かに弱々しかったけれど、そこには舞美の強さがあった。
舞美もきっと同じ気持ち。
そう思うと、笑うことが出来た。


「えり?」
「……うち、そんなことでごねるほどお子様じゃないよ」
「だよね」
「うん」


目が合う。
真顔になっていたえりかを変に思ったのか、
舞美の視線が釘付けになる。



「舞美の体の方が、全然大切」



真剣。
まっすぐに行き交う視線に釣られて、飛び出した言葉。
嘘のない言葉。


なのに舞美はきょとんとえりかを見つめたあと、吹き出した。



「またそういうこと言って」



笑った頬に、薄いピンクの色が乗る。
真っ白だった顔には少しだけ生気が戻った。
心底安心し、えりかは舞美の対応に反論するのさえ忘れていた。
片付け終わった鞄を机の上に置く。


「じゃあ、ホントにごめん」
「だからいいって。今度埋め合わせしてよね」


儚げな笑顔で頷くと、舞美は軽くえりかに手を振った。
教室を出る際、名簿を持った数学教師とすれ違う。
何かを話してから、舞美の姿は扉の向こうに消えた。
見届けて、数学の宿題を忘れていたことを思い出した。



×      ×     ×



午前中の授業を一通り終えてから、えりかは保健室に向かった。
意外に人がいて、そのほとんどが同級生だった。
保健医に舞美のことを聞くと、
「新生活の疲れが出たんじゃないかしら」と呟く。
胃腸風邪が新入生の間で流行っており、舞美もどうやらそうらしかった。



「お腹、痛かったのかなぁ……」



一人、呟いてみる。
へその辺りでシャツを握りしめていた舞美の姿が浮かんだ。
手の中でデッキブラシをくるくると回す。
毛先がタイルをこする音がリズミカルに響いた。
退屈である。


いつもは舞美と一緒に掃除する掃除場所。
トイレ掃除をするのは気が進まなかったが、
担当人数が二人だと聞いて舞美と揃って立候補したのだ。
相棒がいない今、この空間は退屈でつまらないものにしかならない。



大丈夫かなぁ。



ふと思う。
メールの一通くらい入れた方がいいかもしれない。
でも、もし辛い状態で携帯が鳴ったらどうだろう。
舞美はそれでも返事を返してくるだろう。
そんなことになったらいけないわけで。


とりあえず、とえりかはポケットに手を伸ばす。
考えるのはメールの文を作ってからでも遅くはない。


「あれ……?」


ない。
ポケットの中には何もなかった。
あると思い込んでいた携帯も、全く関係ないものも、何もない。


そういえば、鞄の中かもしれない。
えりかはため息をつく。
おもむろに窓を開け、外を覗いた。


三階の中央に位置するここからは、丁度グラウンドが一望できる。
どこかの部活の部員だろうか。
掃除時間まで熱心に、グラウンドの砂を慣らしていた。
初めて見る光景だった。


いつもならおしゃべりに夢中で、見ることのない光景。
用具を使って行ったり来たりする人を見ながら、えりかはもう一度ため息をつく。
舞美のいない生活が、こんなに退屈だとは思わなかった。
胸の中にぽっかりと空いた穴に風が吹き通り、痛みに似た寒さを感じる。
生き生きとした、弾むような感覚にも、今日は触れることがない。


「舞美に会いたいー……」


軽く唸り、地団駄を踏む。
「出来るわけないだろう」と叱りつけるように、丁度チャイムが鳴った。
やっと一日が終わる。残りはホームルームだけだった。



「あった……!」



携帯は鞄にもなく、なぜか机の中に入っていた。
授業中に触っていて、先生が見回りに来たので慌てて隠したのだった。
思い出して、あぁと呟く。



手に取った携帯を見る。
えりかは目を見開いた。
メール着信を示すランプが点滅していた。




まさか。




まさか。




もしかして。




「よーし週番、号令かけてー」
「先生、あたしちょっと帰ります!」
「は? ちょ、梅田!」
「急用が出来たんです!」



後ろから先生の声が聞こえる。
もしかしたらえりかの突然の行動を止めていたのかもしれない。
けれどその声が、えりかの耳に入ることはなくて。




『帰り、家寄れる?』




いつもは来ることがない、絵文字も顔文字もない一行メール。



十分だった。
不安になんてならない。
むしろ幸せ。



足は自然に急いで、駆け出す。
走って、走って、走って。
舞美の家にたどり着くまで、動くことをやめようとはしなかった。



下駄箱を超えて、信号を超えて、歩道橋を渡る。
舞美の家の前にたどり着くと、えりかは大きく息を吐いた。
無我夢中で感じることのなかった疲れが、どっと一気に押し寄せる。


えりかは携帯を手に取る。
『着いたよ』と、絵文字も顔文字もない一行メール。
送る側になって気がついた。
もしかしたら舞美も必死だったのかもしれない。
必死だったから、余分なものをつける余裕がなかったのかもしれない。
辛いのかな、と不安の念が胸を過った。


携帯を見つめ、返事を待っていると頭上で物音がした。
顔を上げると、二階の一室でカーテンが揺れている。
裂かれた布から舞美の顔が見えた。
胸の奥で、何かが満たされる。
窓が開かれた。



「ごめんね」
「今日の舞美、謝り過ぎ」
「だって、ごめん」



舞美は少し赤い顔をして、冷却シートを額に張っていた。
いつしかの自分と被り、えりかはくすっと笑う。


門前の道路と二階の部屋との距離は意外に遠くて、
調子の悪い舞美の声は少しだけ聞こえづらかった。
けれど聞き逃さない。
少しの呟きも聞き取って、少しでも大きな声で返事を返す。


「起きてて平気なの?」
「うん。薬飲んだし、お腹が痛いのと気持ち悪いのは直ったから」
「そっか」


顔色が変わったのはそのせいか、とえりかは心の中で呟いた。
そして言葉に詰まる。
あれだけ舞美に会いたくて、舞美に話したいことがたくさんあったはずなのに、
いざ目の前にするとなかなか上手く言葉にならない。



「どうしたの?」



苦し紛れに聞く。
自分をここに呼んだ理由。
えりかの質問に、舞美は軽く笑った。


「忘れてたから」
「何を?」
「言うの」
「だから、何を?」


ひゅ、と舞美が息を吸う音が聞こえた気がした。



「十六歳、誕生日おめでと」



沁みた。
何が、何に沁みたのかは分からない。
ただ、じわじわと何かが広がって、温かくなる。
心が色付き、目の前の景色が輝く。
たった一言で。



「取ってよ」



短く発せられた舞美の一言。
え、と聞き返す暇もなく、何かが飛んできた。
直方体のものが袋に入っている。
何なのか分からないまま、えりかは必死で飛びついた。
手に収まる感覚を感じ、ほっと息を着く。


「……これ」
「プレゼント。本当は、えりの家で渡そうと思ったんだけど」


えりかは袋から箱を取り出した。
細長くて小さな箱。
張られたフィルムの部分から、金色に輝くネックレスが見えた。
思わずその場で封を開ける。



「ありがとう……」



聞こえるはずのない、小さな声。
なのに舞美は小さく頷いた。
制服のシャツを第二ボタンまで開き、
開いた胸元にチャームが落ちるよう、ネックレスをする。


「似合う?」
「ここからじゃ見えないよ」
「似合うと思ったからこれにしてくれたんでしょ?」
「そうだけど」


肩を揺らして笑う舞美を、抱きしめたくなった。
それを伝えたら、舞美はどう反応するだろうか。


「えり?」


急に黙り込んだえりかに、舞美は声をかける。



どうせまた、笑われちゃうか。



「なんでもない、けど」
「けど?」



でも。




「だいすき」




あなたが崩した体調を押してまで伝えたかったことがあるように、
わたしにも絶対伝えたいことがあるから。



本当に伝えたいことだけ、伝えておくことにした。




あなたがだいすき。




太陽の光を受けて、胸元のチャームが誇らしげに輝いていた。






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