一定のリズムで、体が揺れる。
鉄と鉄がこすれる音。
堅い椅子。
そして。
『ターミナルを超えて』
車窓の向こうの景色が、あっという間に飛んでいく。
栞菜は虚ろな瞳で、流れ行く街並みを眺めていた。
現れては消える看板を、次から次へと目で追う。
その中で、犬を散歩させている人を何人か見た。
そういう時間帯なのだろうか。
目を遠いビルの間に移すと、その狭間に赤い太陽が沈んでいくのが見えた。
規則正しいリズムで車両は揺れ、そのたび栞菜の体は堅い椅子から浮く。
そしてその動きと全く同じように、隣の舞美の体も縦に揺れていた。
比較的早い時間からのお出かけに疲れてしまったのだろうか。
舞美はその薄い瞼を閉じ、小さな寝息を立てていた。
耳からは細く、白いコードが伸びていて、それはシャツのポケットまで続いている。
彼女の愛用するそのイヤホンを、栞菜は何度か見たことが合った。
「……」
何を話すわけでもない。
起こそうとは思わなかった。
安らかな寝顔を見ると、栞菜の脳裏には一日の出来事が浮かんでくる。
カラオケに行き、ゲームセンターに行き、コンビニをはしごした。
ありがちなプランだけれど、二人きりのお出かけ。
頻繁に弾ける、舞美の笑顔。
何度も、恋人同士のデートのようだと錯覚してしまった。
「わ」
がたん、と電車が揺れた。
見つめたままだった舞美の顔が一緒に揺れる。
体が背もたれからずり落ちて、栞菜の方へと倒れ込んでくる。
小さな声を上げ、栞菜は思わず舞美の肩を支えた。
再び、レールを走る規則正しい音が戻る。
舞美はぴくりとも眉を動かさなければ、寝息が乱れることもない。
起きる様子は全くなくて、栞菜はその姿に見とれる。
キスがしたい。
唐突に沸き上がって来た欲求に、栞菜自身が一番驚いた。
慌ててぶんぶんと首を横に振る。
それでも何だか自分が邪に染まってしまったみたいで、
逃げるように窓の外へと視線を泳がせた。
けれど、先程のように外に集中は出来ない。
髪を撫でたいとか、頬をつつきたいとか、そんな欲求は時たま生まれた。
もっと言えば舞美を独り占めしたいと思ったこともあるし、
舞美も自分のことだけを見てくれればいいのにと思ったこともある。
けれど、キスしたいなんて、本能的に思ったのは初めてで。
それに何より、「本人の知らないところ」を
舞台として選びそうになった自分への罪悪感が、栞菜を慌てさせる。
「……ごめんね」
言わなければならない気がして、栞菜は一人、小さく呟いた。
二つずつ並んだ椅子は進行方向を向いていて、
一番後ろの席に座っている二人は他の乗客からの目が届かなかった。
加えて、車内はかなり空いている。人の気配はないに近い。
自分の失態を誰にも気付かれていないと思うと、少しだけ安心が出来た。
栞菜は舞美の耳元に手を伸ばす。
他の物事に集中しなければ、何だかいたたまれなかった。
手探りで耳からイヤホンを外すと、自分の耳へと持っていく。
穴の開いた銀色の幕の向こうからは、激しいメロディ。
ベース音がどくどくと、胃のあたりを押して来た。
激しい音楽を聞くよりも、静かな音楽を聴きながらの方が眠れる。
舞美はいつか、そんなことを言っていた気がする。
けれど舞美が眠ったのは大分前で、もちろんその間に曲も変わるわけで。
寝ている間に曲が変わったのだろうと、深く疑問を持たなかった。
それよりも、舞美と同じ音楽を聴けているという事実が無性に嬉しかった。
一つのものを、二人で共有できているという感覚。
一人遊びで慣れていた子供が、友達とのままごとを覚えたような、そんな感覚。
「……へへ」
緩んだ頬をマッサージして、真顔に戻そうと頑張る。
が、後から後から嬉しさが溢れて、止まることはなかった。
栞菜は息を吐き、背もたれに凭れる。
激しい音がぷつりと消え、変わりにバラードが流れて来た。
さっきの曲も今の曲も、歌っている人は分からない。
もしかしたら舞美ちゃんのお気に入りの歌手なのだろうか。
そんなことを思っていると、瞼の裏が重くなって来た。
うとうとする。
『お待たせいたしました、まもなく……』
緩やかな音の向こうで、車掌さんのアナウンスが聞こえる。
栞菜と舞美が下車を予定している駅は、まだ少し遠い。
腕時計の長針を眺めながら、あと十分は寝ても大丈夫だろうと栞菜は思った。
舞美の心地よい重さを感じながら、静かに目を閉じる。
× × ×
「ねぇ」
呼ばれた気がして、ふと目を開く。
視界は酷く霞んでいた。
寝ぼけているからだろうか。
栞菜はそのまま視線を巡らせ、声の主を捜す。
一定間隔で、体が揺られる。
場所は、さっきまでいた電車の中だ。
全く移動はしていない。
はっきりしない視界は、舞美だけを捉えていた。
舞美しか見えないのか、舞美しかいないのか、栞菜には分からない。
ただ、他の人の気配がしないのはなんとなく分かった。
「 」
舞美の口だけが動く。
何を言っているのか聞こえない。
それよりも、まず舞美は起きているのだろうか。
小さく開かれる口元から、目へと視線を上げようとした。
しかし移動させればさせるほど、視界は霞んでいく。
舞美は体重をかけた体を更に寄せ、腰に腕を回して来た。
普段なら驚き、心臓がうるさくなるような場面だ。
だが、栞菜の意識はいまいちぴんと来なくて、
上からの目線を舞美の口元で泳がせるだけで。
ああ、これは夢だ。
心のどこかで、ふと思った。
こんな上手いことがあるはずがない。
夢の中でまで、舞美を欲しているのかと思うと少しだけ申し訳なくなる。
が、夢の中なので勝手にさせてもらおうという気持ちがあるのも本当で。
こんな夢、滅多に見られない。
だったら、好き勝手やっておくべきだ。
何が根拠でそうなったのか分からない。
ただ、栞菜の思考は虚ろだった。
夢の中なのにやたら眠く、脳の中心まで眠気でとろけていた。
夢の中だから。
そう呟き、口を寄せた。
× × ×
「栞菜……」
まただ。
「栞菜」
また、誰かが呼んでいる。
「栞菜?」
今度は、一体誰なのか。
「栞菜!」
耳から気持ちいいほど勢いよく、何かが引き抜かれる。
メロディが消えたことに、始めは気がつけなかった。
一度開いた目の奥がちかちかして、思わず瞑る。
「ちょ、今すぐ起きて栞菜!」
「舞美ちゃ……?」
「急いで、急いで!」
舞美は片手に二人分の荷物、もう片方に栞菜の右手を握りしめた。
栞菜の頭の中は状況に付いていけてない。
まだ順応しようと思う意識さえ芽生えていなかった。
手を引く舞美のスピードは速く、栞菜のスニーカーは小走りになる。
周りの温度が、急に下がった。
冷たい風に晒されて、体の芯が縮こまる。
一気に目が覚めた。
後ろでピンポン、という電子音と、扉が閉まる音がした。
電車は息を吸い込み、再び走り出す。
栞菜はその様を、背中で感じていた。
そこは駅のホームだった。
上から釣り下がっている看板には、知らない文字が羅列されている。
辺りはいつしか夜の闇に身を染めつつあった。
つい、疑問の意を込めた視線を舞美に送る。
「ここ……?」
「ごめん、あたし寝てて気付かなくて……!」
「どこ、ここ?」
「終点」
舞美の眉は中央に寄り、今にも冷や汗が伝いそうだった。
あわあわ、おろおろ。
あっちへ行ったりこっちへ行ったり、落ち着かない。
仕事帰りのサラリーマン風の男性が二、三人、心配そうにこちらを見ている。
栞菜は慌てて、暴れる舞美の右腕を掴んだ。
「舞美ちゃん」
「栞菜……」
「大丈夫だよ。逆方向の電車、乗り直そ」
「うん……」
ほっと息をついたのはどちらだろう。
ただ、栞菜も舞美も、お互いから焦りが抜けたのが分かった。
反対側のホーム。
まだ誰も並んでいない列に、二人で並ぶ。
栞菜は何となく、目の前の点字ブロックを眺めていた。
汚れた黄色がどことなく切なげ。
「栞菜」
不意に呼ばれる。
「ごめんね」
「いいよ、っていうか舞美ちゃんが悪いんじゃないじゃん」
「でも……」
「ホントに、大丈夫」
微笑みながら思う。
どうしてこんなにこの人は可愛いのか。
無邪気で、無防備で、ストレート。
元気にはしゃいでいたと思えば、物思いに耽っていたり。
そして時には、こんなに不安げな表情を浮かべたりする。
少しつついて壊れるとは言わない。
だけどぼろぼろになってしまいそうな姿。
いつもは決して見ることのできない、舞美の姿。
それが、どうしようもなく可愛い。
可愛い所を一つ一つ、上げていったらきりがない。
そんなことは百も承知だ。
溢れんばかりの愛しさに、栞菜は胸が詰まった。
好きすぎて好きすぎて、咳き込みそうになる。
『四番線に列車が到着します。黄色い線まで……』
アナウンスの声で、やっと栞菜の視線は舞美から離れることができた。
数本向こうのホームに電車が入ってくるのが見える。
行き先のプレートは見えないが、この電車に乗ってしまったら、
またどこかも分からない所へ行ってしまうのは明らかだった。
どうしてだろうか。
それでも平気だと思う。
自分の中にぽつんと生まれた、理由の分からない勇気。
その理由を求めて、きょろきょろと辺りを見回す。
自然と視線は再び、舞美の元に戻って行ってしまった。
まだ、不安げな表情のままだ。
ああ、そうか。
栞菜の心は何故か穏やかだった。
今にも震え出しそうな舞美の体をそっと抱き寄せ、
「大丈夫」だと言ってあげたい。
けれど、自分がそんな行動をとってもいい人間だとは思わなかった。
夢の世界では口付けをし、現実世界でも迫ろうとしてしまった自分。
ここで舞美を抱きしめては、舞美に悪い気がして。
左手に何かが触れた感覚に、舞美はびくりと体を震わせた。
少し驚いた様子で栞菜を見下ろす。
抱きしめない。
抱きしめないけれど、その代わりに。
栞菜は小さく微笑んだ。
「舞美ちゃんと一緒なら、どこに行っても平気だよ」
もし終点を超えて未知の地へ行くことになっても、
それは二人だけの冒険ができるということだから。
自分の右手で、舞美の左手を掬う。
指を絡ませ、ぎゅっと握りしめた。
大丈夫、と言葉を抱いて。
夢じゃないから、口付けはしない。
その代わり、恋人繋ぎくらいは許してほしいな。
「そっか」と呟いた舞美が、手を握り返してくれたような気がした。