いつからだろう。
『お姉さん』だったあの子を、こんな風に意識するようになったのは。
『スプラッシュ』
ぱた、と小さく音がして、鼻の頭に冷たさを感じた。
すくい上げて見てみると、指の先に小さな水の粒が浮いている。
「あっ」
隣を歩いていた舞美ちゃんが、短く声を上げた。
私は視点を、指からそちらに向ける。
舞美ちゃんはぽかんと口を開き、空を見ていた。
「雨」
呟いたその声を合図にしたかのように、
一瞬にして雨脚は強くなる。
私は思わず、頭を手で覆った。
あっというまに服が湿り、体が重くなる。
ひゃあ、と間の抜けた声が出てしまった。
「愛理」
俯いた私に、声と布が被る。
視界の端に、さっきまで舞美ちゃんが来ていたロングパーカーが見えた。
やや強く、それでも優しく頭をフードに押し込まれると、手が引かれた。
「走ろう」
インナーだったベアトップだけをまとった舞美ちゃん。
雨のフィルターがかかり、はっきりとは見えない。
だけど、眉まで被ったフードの向こうの存在に、
私の手を引き走り出すその姿に、胸がときめく。
いつからだろう。
こんな風に意識するようになったのは。
今自分が、どんな表情をしているのかが分かった。
悟られないように、私はもっと深くフードを被る。
首を前に倒し、下だけを、舞美ちゃんのサンダルだけを見て走った。
足下で、ミュールが水たまりを踏む音がする。
弾けた水が、膝近くまで張り付いてきた。
息が強く弾み始めた頃、降り注ぐ雨の感覚が消えた。
鬱陶しかった音も、少しだけ曇って聞こえる。
舞美ちゃんの手が離れた。
温もりの残る掌で、私はフードを剥がす。
木製の屋根が、私たちの頭上を覆っていた。
側には同じように、木で出来た机と椅子がある。
降りしきる雨の世界に目を向けると、
滑り台らしきものが打たれているのが見えた。
ブランコにジャングルジムもある。公園のようだった。
「大丈夫?」
急にかけられた声に、私ははっと振り返る。
舞美ちゃんは困ったように笑っていた。
綺麗に結われていた髪を解く。
艶やかなそれからも、整った顔の輪郭からも、
絶えず水が滴っていた。
「びっくりしたね!」
「え?」
「急に降り出すんだもん。あー、冷たぁ……」
明るい声に、目が覚めたような感覚を覚える。
雨に気付いてから、いや、もしかしたらもっと前かもしれない。
私たちはまともに喋っていなかった。
気まずさを感じなかったからか、
言葉を交わさなかったことに違和感さえも感じなかった。
皮膚にぽつぽつと浮く水滴を、私は手で払う。
舞美ちゃんに習って、後頭部で結っていた髪を解いた。
同じように、髪から顔へと水が伝ってくる。
ふと、視線を感じた。
「どうしたの?」
「や、何でもな……、っくしゅ」
目が合うと、舞美ちゃんははっとしたそぶりを見せた。
その顔が小さく歪む。
手で覆った口からは、小さくくしゃみが漏れた。
その様を見て、私は今更気付いた。
舞美ちゃんの、あまりにも寒そうな格好。
私にパーカーを被せたせいで、上半身は下に着ていたベアトップだけ。
加えて下はホットパンツだった。
今日は暑かった。
高い気温に合わせた服も、この場じゃ寒さを煽る一因で。
鞄を開く。
外観はびしょびしょでも、中はそうでもない。
乾いたタオルを引っ張り出し、舞美ちゃんに被せた。
「わっ」
一瞬、身を引かれる。
その分私は一歩、距離を詰めた。
舞美ちゃんの座るベンチに一緒に座ると、目線が近くなる。
「あ、愛理?」
「濡れたままじゃ風邪引いちゃうよ」
「いいよ、っていうか愛理だって」
「舞美ちゃんの方が濡れてるでしょ」
漆黒の髪を、タオルの上からわしゃわしゃと荒らす。
舞美ちゃんのパーカーは、少しだけ大きい。
袖からわずかに出た指を、頭に押し付けて髪を拭く。
だんだんタオルが湿ってくるのが分かった。
一度は躊躇した舞美ちゃんだけれど、
その後は大人しくなり私に髪を拭かせてくれた。
嫌がる様子がないので、そのまま続ける。
近距離で見る舞美ちゃんは、息をのむほど綺麗だった。
雨の日の青みを帯びた空気と、透き通るような白い肌が妙に合う。
ふと下ろした視線が、露になった肩に釘付けになる。
すっと鎖骨が浮き出たそこに、雨粒が伝う様は何だか色っぽい。
つい、熱い息を吐いた。
「愛理」
見とれていたのを見透かされたように、名前を呼ばれる。
慌てて曖昧に返事をするが、それに対しての返答は来ない。
たった三文字の音では、感情が読み取れなかった。
鼻まで被ったタオルのせいで、舞美ちゃんの顔が見えない。
「舞美ちゃん?」
もう一度、今度は名前を呼ぶが、返事はない。
髪を拭くリズムに合わせて、舞美ちゃんの体が揺れている。
何の抵抗もない揺れ方に、少しだけ不安を感じた。
体を屈め、顔を覗き込む。
「舞美ちゃ……」
言葉が詰まった。
捲ったタオルの向こうには、潤んだ瞳。
仔犬を印象づける、不安定で壊れそうな瞳。
動けなかった。
逃げられなかった。
この人は、私を。
ずっと前から気付いていた。
知らないふりは、もうできない。
「あっ」
気付けばその目だけを見つめ、手が動いていなかった。
その手をぐいと、舞美ちゃんに引き寄せられる。
私はされるがまま、前に倒された。
体が触れるのをためらったせいで、妙な距離が生まれる。
とっさに舞美ちゃんの体の横に付いた手が、やけに冷たい。
顔を上げる。
視線が絡む。
体の中心が、びくりと震える。
「気付いてるんでしょ……?」
痛々しい声が、薄い唇から漏れた。
胸が痛む。
舞美ちゃんをこんなにぼろぼろにしたのは、誰でもない私。
ベンチに片方の膝を付き、
四つん這いもどきになっている私の背中に、
腕を握っていない方の手が回る。
目を逸らそうとした。
けれどできない。
私の瞳と舞美ちゃんの瞳が、繋がれ固定されているようだった。
「愛理が、好きだよ……」
言った。
言われてしまった。
舞美ちゃんは逃げるのをやめた。
どうすればいいのか分からない。
面と向かった、目には見えない想い。
見え隠れしていたそれは、いつしか大きく、重くなっていた。
舞美ちゃんのことは好き。
だけど、きっと舞美ちゃんと同じ『好き』じゃない。
だってあなたは、私の『お姉さん』で。
嘘だ。
鼓動が高い。
顔が熱くなる。
目が潤む。
意識している証拠。
でも。
胸が締め上げられて苦しい。
理由の分からない涙が、目尻から溢れる。
いや、これは雨なのかもしれない。
目が痛かった。
いっそこのまま、雨に溶けてしまえばいいのに。
私も、舞美ちゃんも、交錯する想いも。
雨に溶けて、一つになれればいいのに。
淡くブルーを帯びた雨の空気が、
私たちを静かに包んでいた。