「送信、っと」


送信ボタンを押して、梨沙子は見上げる。
目の前のアパートの二階。
しばらくするとピンクのカーテンが開き、桃子の顔が現れた。





『線香花火』





「びっくりした」
「ごめんね」



夜の住宅街を二人は歩く。
いきなりの誘いだったので来れないかとも思ったが、
桃子は一度着たパジャマを着替えて出てきてくれた。
シャンプーの匂いが仄かに香る。


梨沙子の左手にはビニールのバッグの入ったバケツが下がっている。
母親がどこかで貰ってきたものだ。
使わないから遊んできなさい、と数日前に渡された。



「どうしたの? いきなり花火なんて」



桃子は梨沙子のビニールバックを眺めて言った。
夕食もお風呂も終え、眠るまでの時間を過ごしていたら、
『家の前にいる』とメールが来たのだ。
いきなり、という言葉がちくりと刺さる。
やっぱり良くなかったかな、と思考が過った。
桃子が浮かべた笑顔を見た瞬間に、そんな思いは吹き飛んでしまった。


「お礼」
「お礼? 何の?」
「宿題」
「ああ」


梨沙子と桃子が顔を合わせるのは今日二回目だ。
夏休み最後の今日、梨沙子の宿題はそれなりの量が残っていた。
それをメールで伝えると、桃子が家に呼んでくれたのだ。
全てのテキストを終え、桃子の家を出たのは昼過ぎ。
まさか再びこうして話すことになろうとは思わなかっただろう。


しばらくすると、潮の香りが鼻をくすぐった。
海が近い。
コンクリートを踏みしめる、二人分のビーチサンダル。
住宅街を抜けた車道の向こうに海岸はすぐ見えた。
横断歩道を渡り切ると、その広さにため息が出た。
壮大だ。



夜の海は暗く、黒い。
波の白さは灰色にくすみ、海岸を行ったり来たりしていた。
遠くに重なり合うテトラポットが見える。
砂浜に降りると、固い地面に慣れた足がふらついた。
それを桃子に見られ、大丈夫かと笑われる。


桃子がろうそくを点けてくれるというので、
梨沙子は波打ち際でバケツに水を汲んだ。
足首から下を飲み込んだ海水は冷たい。


「え、点けてもいい?」
「いいよ」


わくわくしているのが伝わるような桃子の笑顔。
それが見られただけでも誘ってよかったなぁと思う。
梨沙子はビニールバッグを開いた。
ぎっしりと詰まった様々な花火の中から、
手持ち花火の袋を出す。


しゅっ、と気持ちのいい音を立て、花火が日を吹く。
色を変えていく炎。
気付けば梨沙子も笑みを浮かべていた。
花火を手に取り、先端をろうそくの火であぶる。



「見て、三本!」
「あっ、桃もやろっ。四本」
「うわ、何それ」
「いいじゃーん。あ、吹き上げもあるんでしょ?」
「あるよ、やる?」
「うん!」



夜の海岸に姦しい二つの声。
とくに高い桃子の声はあたりに響いた。
けれどそんなことは気にしない。
どうせ近くの家は全て車道沿いだ。
車の音しか聞こえないだろう。


サンダルが砂塗れだった。
気持ち悪いくらいまとわりついているはずなのに、
不思議と気分を害さない。
それよりも、色付いた光に夢中だった。
時には炎に、時には照らされた桃子の顔に、梨沙子は夢中になる。



打ち上げはさすがにまずいと思ったので避け、
手持ちと吹き上げは一時間経たないうちに制覇してしまった。
最後の吹き上げ花火を終えると、二人同時に息をつくのが分かった。


「今、何時?」
「もうすぐ八時」
「真っ暗だね」
「うん」


炎を失った暗闇で、開いた携帯から漏れる人工的な光が浮く。
その光で手元を照らし、吹き上げのために消したろうそくをもう一度点ける。
さらにその火を頼りにビニールバッグの奥を覗いた。
小さな袋がまだ一つ、残っている。


「あっ」
「何?」
「まだある。……なんだろこれ」
「どれ?」


梨沙子は引っぱり出した袋を破る。
徐に一本取り出して、桃子に手渡した。
その時の感触で、なんとなく正体を予感する。


他のどの花火より頼りない、ひょろ長い体。
先端は植物の蕾のように、わずかに膨らみを持っていた。




「線香花火」




言ったのは同時。
そして火をつけようとしたタイミングも同時だった。
梨沙子は桃子に先に点けるよう促す。
だって、これはあくまで梨沙子から桃子へのお礼なのだ。


桃子の後に、梨沙子は花火を垂らした。
火を灯した先端が、くるくると身を丸めていく。
球状になったオレンジはとても小さくて、
息を吹いただけでも消えてしまいそうだった。
つい、息を殺す。



「あっ」



持つ部分を上に移動しようと、少し揺らした時だった。
先端から火の玉が離れ、砂に落ちる。
まだ弾けてもいなかった。


「早いよ」
「うるさいなっ」


けたけたと笑われて、梨沙子は顔をしかめた。
バケツに糸のような花火を突っ込むと、後ろから桃子の声がした。



「見て」



桃子の手元では、線香花火がぱちぱちと音を立てていた。
淡い、オレンジ色。
炎というより電気のようだった。
桃子の隣に座り、その様をただ眺める。
引き込まれた。



波の音も、車の音も聞こえない。
こんなに近くにいるのに、お互いの息づかいでさえ聞こえなかった。
火花を散らすのを止め火の玉はふるふると震える。
泣いているみたいだ、と梨沙子は思った。


涙を拭わないまま、火が落ちる。
オレンジ色が、暗闇に飲み込まれていった。
その瞬間、止まっていたように思えた時間が動き出す。
泣いている、なんて思ったからだろうか。
後味は、どことなく切ない。



「何だか寂しいね」



ぽつりと梨沙子は呟く。
波の音でかき消されるほど小さい声だったけれど、
桃子はしっかりと聞いていた。
二人の距離が近いお陰かもしれない。


「でも」
「でも?」
「線香花火って好きだな」


バケツに花火を沈め、次の一本を引き抜く。
桃子はそれをくるくると指で遊びながら言う。
逆側の先端、旗のような紙がひらひらと靡いていた。


「与えられた時間を、精一杯生きているみたいで」
「与えられた時間?」
「だって、どんなものにも最後はあるでしょ?
 それまでの時間」


桃子が花火を点けた後、梨沙子も点ける。
今度は少しも揺らさないように神経を鋭くした。
さっきが短すぎたのもあったが、次は結構長い。
ぱちぱちと弾ける様を間近で見ることが出来た。


けれど火を落とすのはやっぱり梨沙子が先だ。
特に揺らしたわけではない。
自然に落ちたのだ。
桃子はそれより更に長い。


「桃、上手いね」
「線香花火に上手下手ってあるの?」
「分かんない」


上手いと思ったから仕方ない。
何となく、桃子はコツを掴んでいるような気がしてならないのだ。


「夏休み」
「うん」
「今日で終わりだね」


桃子ではなく、花火を見つめながら言った。
火花が散らなくなり、火の玉だけになる。
けれどそれはちっとも落ちなくて、
いつまでも先端にしがみついている。
やっぱり、桃子は線香花火が上手い。


もしかしたらいつまでもこのまま保てるんじゃないか。
そんなことを思っていると、火の玉が震え出した。
それを見て、桃子が呟く。




「人の命みたい」




儚く、美しい。



それは、最後のある一瞬の夢。




呟いた小さな声に梨沙子は顔を上げる。
小さい火とろうそくが唯一の光。
辺りは暗くてよく見えない。
けれど分かった。
桃子の、切なげな横顔。



どこか、線香花火に似た。




感じた瞬間に、心がざわついた。
光の少ない視界が怖くなる。
落ちる線香花火のように、暗闇が桃子を飲み込んでしまいそうで。
闇に、桃子が溶けてしまいそうで。



梨沙子は桃子に飛びついた。
体に腕を回し、桃子の二の腕にすり寄る。
勢いが強すぎて、桃子は砂の上にお尻を下ろした。
梨沙子もバランスを崩し、砂浜にぺたんと座り込む。
いつの間にか、花火から火が消えていた。
今ので落ちたのだろう。


光を失う。
けれど桃子は確かに梨沙子の腕の中にいた。
心に満ちていく安堵感。
躊躇いがちな手が添えられる。



「どうしたの?」
「何でも、ないけど」
「けど?」
「……理由がないと抱きついちゃだめなの?」



返す返事に困る。
桃子が消えてしまうかと思ったなんて言ったら、
笑われそうだと思った。
確かに感じた不安は、親の作り話に怯える子供の心境に似ていて。
子供扱いしてほしくなくて、梨沙子はごまかした。


そんな梨沙子の思いを知ってか知らずか、桃子は梨沙子の頭を撫でた。
よしよし、と呟かれた一言がふわりと空気に浮く。
少しだけ悔しくなった。


目を閉じる。
視界を閉鎖した分、音がよく聞こえる。
波の音。
桃子の呼吸。
触れた部分から、鼓動も聞こえるような錯覚を覚えた。



「夏休みが終わったら、会えなくなるね」



今年から中学に上がった梨沙子は忙しくなり、
高校に上がった桃子はそれ以上に忙しくなった。
一学期、会えた機会は少ない。
面と向かって喋ったうちの二回は偶然だった。


夏休みが終われば、こうして桃子と一緒にいることはない。
もう一度終業式に戻れたら。
いや、一日でもいい。
夏休みがもう少し延びたなら。



このまま、夏休みが終わらなければいいのに。



「でも、夏休みはまた来るよ」



桃子は言う。
次の夏休みまで待ちたくない。
今がいい。
言おうとしたけれど、桃子の言葉に遮られる。


「きっと来年も、最終日に梨沙子は宿題持ってうちに来るよ」
「何それ、分かんないじゃん」
「分かるよ、毎年だもん」
「う……」
「……で、来年も一緒にこうやって花火するんだよ」


梨沙子は目を開いた。
顔を上げたのに気付くと、桃子は梨沙子の体を押した。
少し距離が開いて、その距離を今度は桃子が埋める。
右頬にキスをされた。



「楽しかったよ、ありがと」



うっすらと見える桃子の輪郭。
浮かべているであろう笑顔はよく見えないけれど、
声色がとろけそうなくらい柔らかい。
そして、優しい。
顔が見えなくても、それだけで十分だ。


梨沙子はキスの感覚が残る右頬を撫でる。
自然に笑顔が溢れた。



「最後」



桃子は最後の一本を手に取り、火を灯した。
そして梨沙子の右手を取り、自分の手に被せる。
二人でか細い花火を握った。
体温が溶け合う。



火の命が尽きるのを、二人は黙って見ていた。




さよなら、夏。




また来年も、きっと君とこの海で。





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