夢を見ていた。


天使の夢だ。


目の前にふと現れ、言葉を残し、去って行く。


その言葉は、疲れ果てた心を一瞬にして癒してくれる。


夢の中の世界では、もう顔なじみだった。



『件名 無題
 本文 今大丈夫?』



そんな夢を遮って届いたメール。


それは、天使からのメールだった。




『Real voice』




歌う携帯に起こされて、桃子ははっと顔を上げた。
目の前には手をつけたままの英語のノート。
今日中に終わらせなければいけないのに。
桃子は眠たい目をこすりながら苦い顔をした。
いつの間にか眠りに落ち、気付けばもう十一時を過ぎている。


メールの差し出し人は友理奈だった。
桃子はつい、夢の事を思い出す。


最近、友理奈の夢を度々見る。
それは決まって、受験勉強に追われ、心身ともにだるい夜。
夢で出会う友理奈は桃子を癒し、
一日を過ごせる力を分け与えて朝へと送り出してくれる。
人生にくじけないよう人間を導く、天使のような存在だった。



『件名 Re:
 本文 大丈夫だよ?
    どうかした?』



桃子は軽く返事を返すと、携帯を閉じた。
そして、すぐさまノートに向かう。
眠ってしまって出来なかった分を取り戻さないと、
明日一日眠い眠いと言いながら過ごさなければならない。
予習を放り投げれば、明日の英語の授業はまともに受けられなくなる。
受験生にとって、それは痛い。
シャーペンを握り、ノートの上を走らせる。



「……めずらしいなぁ」



今思えば、友理奈からメールが来る事は珍しい。
前までは頻繁にやりとりをしていたが、
今は桃子が受験生だという事を考慮しているらしい。
桃子がメールを送らない限り、友理奈からの着信はなくなっていた。


ここ最近は、桃子から送る事が多い。
そのため、友理奈とメールをする事が珍しいとは思わない。
けれど、『友理奈からメール』という事実は、よく考えると久しぶりなわけで。



『件名 Re:Re:
 本文 ちょっと話したくて。
    宿題終わった?』


『件名 Re:Re:Re:
 本文 うん、終わったー。
    話って?』



嘘をついた。



別に、深い理由があるわけじゃない。
ただ、友理奈と話したかっただけ。
ここで宿題が終わってないと告げれば、せっかく繋がった糸が途切れてしまう。



「依存し過ぎかな……」



ふぅ、とため息をつく。
少し距離が出来ただけなのに耐えられなくなる。
嘘をついてでも繋がりを断ちたくなくて、側に居ない事がとても疲れる。
そして今じゃ、夢の中にも出て来たりして。


勉強に集中しないといけないのは分かっている。
受験生だから距離が出来るのも分かっている。
このくらいでストレスを感じちゃいけないのも分かっている。



けれどだめだ。



たった一通の、向こうからきたメールがこんなに嬉しい。



ふと鏡を見ると、にやけ切った自分の顔。
さっきまで寝起きで、顔をしかめていたくせに。



「あー、もー……」



机に頭を落とし、幸せに浸る。
噛み締めた嬉しさは溢れて、頬に伝わる。
つり上がる口角と、細く垂れる目。


桃子の頭の中で、理性と欲求が戦っている。
これ以上友理奈と慣れ合ってはいけない。
勉強しなきゃだめだと、さっき思ったばかりなのに。
でもだからといって、メールでの会話を終わらせる事も出来なくて。



一人シャーペンを回しながら悩む桃子の耳元で、
携帯が再び電子音を鳴らす。



「うわっ」




『件名 Re:Re:Re:Re:
 本文 最近メール来ないけど大丈夫?
    無理してない?
    何かあったらすぐ連絡してね!』




幸せ者だという事を実感した。



最近、といっても二日や三日の事だけれど、
桃子は友理奈にメールをしなかった。
それまでは受験勉強での疲れを、メールでの会話によって晴らしていた。
けれどそれが何となく、友理奈に頼り過ぎだと思って、メールを止めたのだ。


勉強勉強と言われる中で、たった一つの憩いだったメールを断った。
たしかに友理奈に頼っているという、どこか情けなくも感じる事実は消えた。
けれど毎日に彩りがない。
意味もなく、ただ延々と繰り返されている気がしてならない。



しばらく会ってはいない。
けれど、メールができるだけ恵まれている。
今は一時期断っているだけ。
いつでも、連絡を取ろうと思えばできるんだから。
そう、思っていた。



けれど。



「……やばい」



会いたい。



せめて話がしたい。




声が、聞きたい。



素直に、そのままの感情を伝えてしまいたかった。
でも、それは出来ない事。
伝えてしまえば、きっとリミッターは外れる。
友理奈に凭れかかり、自分がだめになるような気がして。


受験という壁が、友理奈と自分を引き裂いている。
実際そんな大げさなものではないのかもしれない。
けれど桃子にはそう思わざるを得ない。
その位、苦しい。



夢の中では良かった。
気付けば目の前に友理奈がいる。
その姿が、声が。
桃子を優しく癒してくれた。



けれど現実世界は。


こんなに距離がある。


声も聞けない、距離。




突然、再び携帯が震えた。
メールはまだ返していない。
驚きつつ手に取ると、メールではなく電話。


白い指が、通話ボタンを押す。
ぷつ、と小さい音の後、しばらくの沈黙。



「もしもし……?」
『桃?』
「くまいちょー?」



電話の向こうには、思いもしなかった友理奈の声。
つい声が上擦る。
心を読まれたかのように、絶妙なタイミングでの電話だった。


友理奈の柔らかな声が、耳から染み渡ってくるような感覚。
それは桃子の心にある何かを、ぐっと鷲掴みにする。
苦しいけれど、不快ではない。
むしろ、優しく触れられているのと同じくらいの心地よさを感じた。



『ごめんね、いきなり電話して』
「ううん、いいけど……。どうして?」



自分で言って、違和感を覚える。
どうして、なんて理由。
聞かなくても分かっているはずなのに。
なぜなら、桃子自身が今まで胸に秘め、溢れそうだった思いがそれ。



『久しぶりにね、声が聞きたかったんだ』



素直すぎる友理奈の言葉が、桃子には眩しく聞こえた。
勉強だとか、メールだとか。
衣装ばかりに気をとられ、自分を出せない舞台女優。
疲れるに決まってる。
自分で自分の首を絞めていたのかもしれないと、桃子は静かに思う。



『勉強、大丈夫?』
「うん」
『疲れてない?』
「うん」
『……何かいい事あった?』
「え?」
『声が嬉しそう』



そう言った友理奈の声も嬉しそうで。
自分の中がみるみる透き通り、新しく色がつけられていくようだった。
桃子は目を閉じる。
目に浮かぶ笑顔は大分前のものだけれど、今でも鮮明に焼き付いている。




「声が聞けたからだよ」




画面に表示される文字なんかじゃない。
電話越しではあるけれど、本当の声が聞けたから。




ぐるぐると巡っていた日常に、光が差した気がした。




ありがと、天使。






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