その
額の近さを信じて
『夏の抜け殻』
「暑い」
「暑いね」
そんなやり取りをしたのは、もう何度目だろう。
言うのを止めようとしても、この気温では自然に口から出て来てしまう。
梨沙子の言葉を聞いた雅の返答も毎回同じ。
何とかしたいのはやまやまだが、そんな力があればもうどうにかしている。
暑いね、と曖昧な言葉を返すことしかできなかった。
もうすぐ夏休みも終わる、ある日の午後。
数時間前に南中を経た太陽は、地上をじりじりと照りつけている。
天への視界が完全に開けている公園に、二人はいた。
熱せられた氷のように、ベンチに溶け、流れている。
「どっかいく?」
「どこに?」
「さぁ……」
もともとは近くのプールに行こうと思っていた二人。
しかし夏終盤の市民プールは人だらけで、
とても入りたいとは思えなかった。
自転車で走りながらフェンス越しに見たその光景は、
消毒された水で人を煮込む鍋のようで。
どう見ても涼めそうとは思えないその場を、二人は潔く後にした。
別の場所を求めて彷徨うも、どこも同じようなものだった。
ショッピングモールに行けば、同年代の少女が溢れ帰り品物が見れない。
ファーストフード店に行けば、必ず満席で空く気配もない。
途方に暮れた二人が見つけたのが、この日光を目一杯に浴びる公園だった。
いつもは小さな子供で賑わうであろうそこには、誰も人がいない。
夜に灯る灯りに虫が群がうよう、人間は涼しさに群がっている。
そこはもはや、二人だけの空間も同然だった。
「みや……」
「んー?」
「熱射病なっちゃう」
「んー……」
目的地が決まるまで。
ほんの数分の止まり木程度にしか思っていなかった公園だが、
かれこれもう二十分ほどここにいる。
耐えきれなくなった梨沙子が喘いだ。
日光を浴びすぎた頭が熱を持ち、脳を溶かしそうだ。
日焼け止めを塗っては来たが、それを突き破られていることは確か。
頭の先から足の先まで、全てが火照り切っていた。
雅はすっくと立ち上がった。
何の前触れもなかったその行動を、梨沙子は目だけで追う。
少し視線を上げるだけでも、日光の眩しさが目を射った。
じゃり、と砂を踏みしめる音。
水着やタオルの入ったビニールバッグを右肩にかけ、雅は梨沙子に向き直った。
「影行こう」
雅の声はいつもより低く響き、梨沙子の耳に届いた。
吸い込まれるように公園の中心部に歩き出す背中。
そこには樹木が生い茂り、森のようになっていた。
「待って」
梨沙子も立ち上がり、雅を追いかける。
強く砂を蹴る音が続いて、もう一つの足音と並んだ所で穏やかになる。
二人は並んで樹木の陰に入った。
上を見上げると、木々に茂る葉が日光を遮っているのが見えた。
きらきらと緑色に輝いている。
座る所ないかな、と呟くと、雅はもっと奥へと歩き出す。
人の腕ぐらいの丸太で作られた階段は、
柵によって雑草との境界線を引かれていた。
梨沙子も雅の後に続く。
「すごいね」
「え?」
「何か、自然で作られた道って感じ」
「ね。こんな所あったんだ」
「虫出そうだけど」
「やめてよ」
梨沙子は顔をしかめてしきりに辺りを見回す。
確かに、出るか出ないかと言ったら出てきそうだ。
森のようだけど、森じゃない。
出てくるのはカブトムシより毛虫な気がする。
想像すると寒気がした。
しばらく歩くと、これまでの中で一番の大樹と出会った。
きっとここが公園の中心だろうと、梨沙子は何となく思う。
大樹の袂には木製のベンチが二つあった。
その中の一つに雅は腰掛ける。
隣に梨沙子も座った。
足が疲れているのを感じる。
「こんな所、あったんだね」
ついさっき梨沙子が言った言葉を、雅はため息まじりに呟いた。
樹の傘で覆われているみたいで、気分はどこか壮大だ。
深呼吸をしている雅を梨沙子は横目で見る。
肺が空気で満たされていくのが、見ているだけで分かった。
二人は黙り込んでいた。
けれど気まずさは感じない。
雅は雅、梨沙子は梨沙子で、この空気を楽しんでいた。
夏の終わりの暑さ。
俗にいう残暑を肌で感じる。
あれだけ思考を奪っていた暑さも、
木陰に来るだけでどこか心地よく感じるから不思議だ。
こめかみに滲む汗が、
体の中の余分なものを出してくれているみたいで気持ちがいい。
先に口を開いたのは雅だった。
口を開くというより、行動が先。
雅の指が、自分の肩に何かを乗せるのを梨沙子は感じた。
「梨沙子」
雅がいたずらな声を出すのと、梨沙子が肩を見るのはほぼ同時。
視界の端に捉えたオレンジ色が、梨沙子の背筋を撫で上げる。
寒気がした。
「ひっ」
思わず声を出す。
声になっていただろうか。
喉の奥で声になりきれなかった空気のように聞こえる。
どちらかというと音だ。
がばっと立ち上がると、肩に乗ったそれを思い切り振り払う。
オレンジが地面に落ちた時、梨沙子の体はベンチから遠く離れていた。
青ざめた顔で息を荒げる梨沙子。
雅は申し訳なさそうな、それでも心底楽しんだ笑みを浮かべた。
「もーやだ……」
「ご、ごめん、そんなに驚くと思わなかったから」
「怖……」
「ごめんって」
腰が抜けたかのように、梨沙子はうずくまる。
暗くなった視界に、足音が近寄ってくるのが聞こえる。
それはどこか慌てていた。
背中に温かい感触が乗る。
一瞬びくりと身を震わせたけれど、恐れるものではないと本能がなだめた。
それどころか、安心していく。
顔を上げると、雅が背中を撫でてくれていた。
視線が絡む。
ごめんね、と雅はもう一度謝る。
怖かった。
心臓が止まるかと思うくらい驚いた。
小さなことだけれど、微かに心に傷がつく。
きっと簡単に許せなかっただろう。
けれど雅に謝られると、許さないという選択肢が消える。
心が広いのか、広くないのか分からない。
「いいよ」
梨沙子は小さく呟くと、あたしも驚きすぎたと繋げた。
ちらりと雅の顔色をうかがう。
笑顔。
穏やかな微笑みだった。
雅の笑う顔が見れただけでも、許してよかったと思う現金な自分がいる。
回復した梨沙子に安心したのだろう。
雅は落ちたオレンジ色に歩み寄り、覗き込む。
遠目で見ても細密な作り。
どこか不気味で、背筋に悪寒が戻ってくる。
怯えている梨沙子を、雅は手で呼んだ。
「大丈夫だって、抜け殻だし」
言うと、雅はつつき始める。
時に雅は物怖じしない所がある。
梨沙子はおそるおそる、雅の向かい側に座り込んだ。
抜け殻だし、と言うが、でもどこからどう見ても形は蝉の幼虫だ。
そっくりな分気持ちが悪い。
でもちらちら見ていると態勢が出来るらしく、
とりあえず見つめることは出来るようになった。
不意に雅は、抜け殻の背を指で触れる。
その際近付いた距離。
覗き込む二つの頭が、近い。
「ぱっくり開いてる」
「うん」
「ここから、中身が出たんだよね」
「中身とか言うと気持ち悪いね」
「ごめん」
今度は笑いながら謝られる。
その声は耳より、額を通じて聞こえているようだった。
会話は成り立っているようで、成り立っていない。
梨沙子には目の前の抜け殻より、
触れ合いそうで触れ合わないお互いの額の方が気になる。
口にする言葉も、どこか上っ面だけのものになってしまう。
「じゃあ、大人の蝉」
「大人?」
「だって、殻の中で大人になったから出るんじゃないの?」
「でもこれって、幼虫の形でしょ」
「あ、そっか。抜けてから大人になるんだ」
へぇ、と気の抜けた声を上げながら、雅は立ち上がった。
額が離れていく。
騒ぐ心臓は落ち着いたけれど、どこか少し残念で。
梨沙子もとりあえず立ち上がる。
「いいなぁ。殻から抜けたらすぐ大人になれるんだよ」
雅は梨沙子に背を向け、遠くを扇ぎながら言う。
「うちも、早く大人になりたいな」
そう口にする雅の背中に、裂け目が見えた気がして。
開いた背から抜け出た蝉は、じきに大人になる。
一週間の命を生きて、死んでいく。
当たり前の理が、意味なく梨沙子の頭の中に流れた。
どうしてか、心細くなる。
「大人しか出来ないことってあるじゃん。
煙草は多分吸わないけど、お酒とかさ。
あー、でも歳とるのは嫌だな……」
一人で喋る雅の手を、後ろから取る。
雅は驚いた様子で振り返った。
語り口調の声が止まり、夏の声だけが響く。
蝉の声だった。
「どうかした?」
雅に聞かれるけれど、梨沙子は俯いたまま答えられなかった。
ただ、握りしめた手に力を入れる。
周りの空気より熱く、熱を持ち始める右手。
いつか、大人になる。
それは自分にも雅にも平等に与えられた理だ。
いつか殻を脱ぎ捨て、大人になる。
そのことが今、どうしてか心細くてたまらない。
理由を知らないであろう雅が、
おそるおそる腰に手を回してくるのが分かった。
それに答えるように、梨沙子は雅の首に腕を回す。
額が触れた。
雅が身を引くけれど、梨沙子がその距離を埋める。
こつ、と音がして、その距離が開くことはなかった。
わずかに汗ばんでいる。
自分たちの抜け殻は、どんな姿として落とされるのだろうか。
梨沙子は蝉の抜け殻の開いた背を思い出していた。
こんなに近くにいる。
だからきっと、大人になる時も一緒。
言い聞かせて、安心させる。
その、額の近さを信じて。
「大人になる時」
「え?」
ぼそりと呟いた言葉に、雅の声が返って来る。
思ったより近くて、体に声が染み渡っていくのが分かった。
「大人になる時も、一緒だよね」
雅の背が開かれる時。
その時は自分の背も、夏に開かれたい。
そして暑い夏の日、今日のことを二人で思い出したい。
「どうしたの、急に」
「……何でもないよ」
小さく交わした言葉たちは、
あっという間に蝉の声に飲まれていった。