この日をどれだけ待っただろうか。
その奇跡ともいえる偶然に気付いてから、今日までの時間はとても長かった。
待ち遠しくて、本当にどうしようもなくて。
早く来てほしいような、過ぎ去ってほしくないような。
そんな、矛盾の繰り返しだった。



「今日の当番は徳永と熊井だったな。後片付け頼むぞー」




『日直』




「珍しいね」
「へ!?」


当番日誌を開きながら友理奈は言った。
急にかけられたその声に、千奈美はつい、過剰反応をしてしまう。
大きな声を上げてから、しまったと後悔した。
けれど友理奈はそれを気にしていないようで。


「ちぃが素直に当番するの。いっつも文句ばっかり言ってるのに」


当たり前だよ、と千奈美は心の中で呟いた。
学年の違う二人が一緒の教室で勉強できるのといったら、
塾での特別講習くらいしかない。
本来なら興味のなかった講習を申し込んだのは、友理奈も参加すると聞いたからだ。
毎回会える。運が良ければ隣の席。
もしかしたら、一緒に当番の仕事ができるかもしれない。
そんな期待を、この講習に託した。
じゃなかったら、誰が休日を使ってまで先生の話を聞きに塾まで来るのかという話だ。



「今日はね、ちょっと気分がいいの」
「ははっ、そーなの?」
「うんっ。すっごく」
「へー……。あ、それあたしやるよ」



二人きりの教室では、二人の声しか響かない。
そんな当たり前のことが妙に嬉しく感じる。
窓の向こうはもう暗かった。
一度掴みかけた黒板消しを友理奈に手渡しながら、
千奈美は窓から下を覗いた。
帰宅する塾生がちらほらと、建物から出て行くのが見える。


「じゃ、クリーナーかけてくるね」
「うん、お願いー」


友理奈の細い背中が、暗い廊下に消えていく。
講習が終わり、当番が後片付けをする時間には、
外が夜の呼吸を始めていることくらい先生だって知ってるはずだ。
わざわざ薄暗い廊下に黒板消しクリーナーを置かなくてもいいのに。
そんなことを思いながら、千奈美は窓に鍵をかける。
日誌の「施錠」の欄にチェックを入れた。


「ちぃー」
「どーしたの?」
「何かクリーナー壊れてるみたい。窓から叩いていい?」
「ああ、うん」


赤、白、黄。
チューリップにも負けないほどの色彩が、
モスグリーンの布地に粉っぽく張り付いている。
再び窓を開け、そこから伸びる友理奈の手。
そんなことあるはずないと思いながらも、
乗り出した体が落ちてしまいそうで少し心臓に悪い。



「何?」
「え?」
「いや、ちぃがこっちばっかり見てるから」
「あ、や、別になんでもないんだけど」
「あ、そっか。鍵しめないといけないもんね。
 ごめんね、一回しめたのに」



細い腕が軽くしなり、黒板消し同士がぶつかると、白い粉が舞う。
そしてそれは白くなった息の要に、しばらく浮遊した後空気に飲まれた。
虚ろな眼差しで千奈美はその様を眺める。
曖昧な返事を返しつつも、いつしか目はつい友理奈に向いた。
蟻が砂糖に群がるように、磁石のS極とN極が引き合うように。
それは本当的なもので、意識してもやめることができない。


髪の生え際から額、鼻、唇、顎、首。
横顔のラインは計算し尽くされたように美しく、つい見とれる。
胸に歯がゆい感情が鼓動する。
このままこうして、横顔を見つめるだけの時間が続けばいいのに。
本気で、そう思った。



「……ちぃ、あたし、ちゃんと鍵閉めとくから大丈夫だよ?」



どこか別世界のように映っていた友理奈の顔がこちらを向く。
はっと目が覚め、千奈美は慌てた。


「あ、そうだよね!」
「うん。ちぃってばずっと待ってるんだもん、やりにくいよー」
「ごめんごめん」


苦し紛れに千奈美は日誌を見た。
チェックしていない欄があと少しある。
いや、あと少ししかない。
仕事を進めるのが憂鬱だ。
今日まで、この数十分を夢見て生きてきたと言っても過言ではない。
この時間が終われば、後の生活がとても味気なくなってしまいそうだった。


千奈美はぶらぶらと歩を進め、教壇にあった大きい三角定規に手をかける。
まだ消し切れていない黒板に、図を書いた跡があった。
今日の講習で使ったのだろうが、
当番のことしか頭になかった千奈美が覚えているはずもなく。


「これ、先生どこから出したっけ?」
「あー、そこ。その他なの一番上のダンボールだったと思う」


黒板消しを叩き終わった友理奈が黒板前に戻って来る。
指は黒板の傍ら、教室の隅にある、背の高い棚を差していた。


届くかなぁ、と呟くと、千奈美は手を伸ばす。
背は低い方ではない。
けれどダンボールには届かなくて、あと少しのところで指先は空気を切った。
だったら、と今度は三角定規を装備する。
ごつ、と音を縦、角がダンボールに触れた。


「ちぃ、危ないよー?」
「大丈夫だって」
「あたし取るよ」
「平気、平気」


一緒に置いてある辞書や教材の間を縫って、
定規の角は上手く器用に箱をたぐり寄せる。
後少し。
そう思ったとき、視界の裏から手が伸びてきた。
友理奈の手だ。



大丈夫だよ、ともう一度言おうと思った。
けれど背中に触れた友理奈の体を感じた瞬間、
言葉は喉の奥に引っ込む。
力強く脈打つ心臓。
ずくん、という音と一緒に、千奈美の腕に力が入った。



変に動いた定規の角が、ダンボール箱を弾く。



「あっ」



発したのは、ほぼ同時。



頭を覆う少し前、視界が箱や教材でいっぱいになるのが見えた。



「痛……」



ばさばさと、けたたましい音が響く。
固く閉じた目は、耳元の曇った声に反応し、勢いよく開く。



「熊井ちゃん!」



いつの間にか千奈美は座り込んでいて、
その細い体を守るように、友理奈は千奈美を抱きしめていた。
我に返ってみると、体に痛みは残っていない。
その代わりに、友理奈の眉が中央に寄っている。
辺りには、さっきまで棚にあったものが散乱していた。



千奈美はやっと、友理奈が自分をかばってくれたことに気付いた。


「熊井ちゃ……」
「だから危ないって言ったのに!」


友理奈の腕の中で実をよじらせ、
向き直った千奈美に振ってきたのは鋭い声。


思わず、体の芯が震えた。
聞いたことのない友理奈の声。
縮み上がった肺が呼吸を拒む。
苦しい。


「……怪我は?」
「え?」
「どっか痛かったりしない? 大丈夫?」
「うん、あたしはいいけど、でも」


言いかけると、逸れを遮るように友理奈は息を吐いた。
体の中の空気を全部吐き出しそうなほどの大きな息。
つられて、千奈美も細く呼吸する。
酸素を求め続けていた体が熱い。



「よかった……」



肩に回された腕に力が入った。
触れられている、掌の感覚。
接している部分が発火しているようにひりひりする。
心臓の音がうるさくて、体を突き破ってしまいそうだった。


ふと、千奈美は友理奈の顔を見上げた。
一瞬見えた苦しげな表情は消え、静かに目を閉じている。
微かに汗ばんでいた。冷や汗だろうか。



それだけ、焦ってくれたのだろうか。



「ちぃ?」



目が合う。



息を飲む。



自分の中の、何かがおかしい。



何かが。



「どうし……」



吸い込まれるように、千奈美は友理奈の唇に口付けた。



ゆっくりと、顔が離れる。
体を引いたのは千奈美の方だった。
無意識のうちに潤んでいた目には、ぽかんと口を開けたままの友理奈の姿。



今、何をした?



どれほど時間が経ったのかは分からない。
一秒にも一時間にも思えた、ただ見つめ合っていただけの時間。
いや、見つめ合いなんてロマンチックなものじゃない。
相手を見つめることしか出来なかったのだ。


ふと湧いた疑問の答えはとうに出ていた。
けれど、それを明かそうとしない自分がいる。
そんな自分を嘲笑うかのように、心のダムには亀裂が入って。



「……っ!」



破裂する。



思わず、友理奈の肩を突き飛ばした。
優しく包み込んでくれた腕を引きはがし、飛び越える。



「ちぃ!?」



感情が溢れ出ていくのが分かった。
友理奈の声は、あえて無視する。
答える術を、千奈美は持っていない。


教室を飛び出す。
激しい音を立て、後ろでドアが叩き付けられていた。
廊下はもう、外のように暗い。


申し訳ない程度に設置された蛍光灯。
その光を頼りに、千奈美は走った。
どれだけ走っても終わりが内容に見えるのは、廊下の長さのせいなのか。
それとも、暗さのせいなのか。


「あっ」


闇の中から、壁が急に現れる。
千奈美は慌てて足を止めた。
その右手を温もりが掴む。
振り返らなくても分かった。



「ちぃ」



大きな声ではない。
なのに凛とし、心に響く声。
体が震えた。



「離して!」



振り払う。
いつの間にか、目に涙が溢れていた。
強引に振り回す腕。
その反動で、涙の粒が空気へと散った。



キスをした。



いきなり、了解も得ず。



なんてことをしてしまったんだと、後悔する余裕もなかった。
体を張って、自分を守ってくれた。
その行動が、どうしようもなく嬉しくて、嬉しくて。
鼓動が体を突き動かし、衝動的に口付けた。



絶対、傷付けた。



今、友理奈と向き合えば、その傷とも向き合わなければならない。
それが本来するべきことだと分かってる。
けれど、その勇気は千奈美にはなくて。



触れてしまえば、今までの関係が全て壊れてしまうと思った。



「好きだからっ」



ぐっと腕を掴まれ、引き寄せられる。
ついよろけるが、倒れはしなかった。
千奈美は華奢な友理奈の体へと崩れた。


再び感じる、友理奈の温もり。
一度突き放したはずの感覚に、千奈美の拒絶反応が消える。
人肌の温かさが、冷たく閉ざした何かを溶かしていくのが分かった。


「え……?」


絞り出すように出した声は涙声。
がむしゃらに暴れていた感情の中で、一瞬聞こえた言葉。
千奈美は顔を上げた。
耳を疑っていた。


「ちぃは、慌てんぼすぎ」


友理奈の長い指が、千奈美の頬を伝う涙を救った。
目が慣れたのか、表情がうっすら見て取れた。
笑っている。



「あたしも、ちぃのこと好きだから」



腕が背中に回り、ぎゅうと抱きしめる。



「だから、嬉しかったんだよ?」



安心した。
自らと友理奈の間に、繋がりがあることに安心した。
距離のない体。優しい言葉。そして心。
何一つとして、離れてはいない。
嬉しさと安堵感で、また涙が溢れてくる。


「っ、ホントに……?」
「本当」
「嘘……」
「嘘じゃないよ」
「……だって」
「しっ」


信じられなくて、疑問を投げる。
俯きながら小さく言う千奈美に、友理奈は人差し指を立てた。
つい、千奈美が友理奈の顔を見る。



瞬間、視界いっぱいに友理奈の顔が近付いてきて。



闇に溶けそうな二人を、蛍光灯だけが仄かに照らしていた。






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