まっしろな世界。
気怠いような、気持ちいいような、ふわふわした感覚。
ほっぺがあったかい。
「りーさーこー」
声が聞こえる。
誰。
私は、この声を知ってる。
この声は━━━……。
『眠り姫』
「こんな所で寝てるとちゅーしちゃうぞー」
少しおどけたテンションで千奈美が言うと、
梨沙子はその薄い瞼をゆっくりと開いた。
フィルターのかかったように、はっきりしない瞳。
それでもきらきら光るそれは、
あちらこちらをふらふらと彷徨い、やがて千奈美の目線と絡む。
「やっと起きた」
目の前でひまわりのような笑顔。
寝ぼけ眼で見る千奈美の笑顔は、
目の前でフラッシュをたかれたかのように眩しかった。
思わず梨沙子が顔をしかめると、それを怪訝に思ったのと勘違いした千奈美が苦笑する。
「そんなに嫌そうな顔しなくてもいーじゃん、傷付くー」
別に嫌だと思ったわけじゃないんだけどな。
梨沙子は目をこすりながらゆっくりと体を起こし始める。
一人で騒いでいたことに気が付いた千奈美はこほんと咳をつき、
「それにしてもさ」と口を開いた。
「よくこんな所で眠れるよねー」
くすくすと笑われた梨沙子は起こしかけた体をそのままに、
自分の周りをきょろきょろと見回した。
そこは人の少ない別校舎の中央階段を、一階まで下りると現れる、
廊下にぽつんと佇む小さなベンチだった。
側には特別教室しかなく、お世辞にもよく使うとは言えないスペース。
けれど側の大きな窓からよく日の入るそこは、
何だか神聖な雰囲気を帯びていた。
木製のベンチは小柄で、華奢な梨沙子の身体がぎりぎり収まっている。
寝返りをうつスペースなどもちろん無く、
そんな所で眠れる梨沙子は器用以外の何ものでもなかった。
「今何限目…?」
梨沙子は太陽の光をいっぱいに浴びた茶髪を掻きながら言った。
髪一本一本から光のエネルギーが溢れだしているようで、口調はまだ覚束ない。
千奈美は何となく、生まれたてのきじとら猫を連想した。
「今四限目終わったところ」
「うわ、三限目で戻るつもりだったのに」
「いつからいるの?」
「ホームルーム終わってから」
「一限も出てないんじゃん」
全く困った眠り姫だな。
千奈美は呟くと呆れたように笑った。
「なんでちぃはこんな所に居るの?」
「んー? 調べ学習で図書室行こうと思って」
「ふーん」
梨沙子はそれだけ言うと、せっかく起こした体を再びベンチに預けてしまった。
奥の図書室に目線を移していた千奈美は少しばかり驚いて、
寝転がった梨沙子と視線を合わせるためにしゃがみ込む。
梨沙子の長いまつげが、妙に芸術的に見える。
昼の温かい日光に照らされるせいか、白い肌が際立って見えて。
まるで天使のような梨沙子の頭を、千奈美はふわりと撫でた。
すると照れくさかったのか、梨沙子は顔を覆って仰向けになる。
「梨沙子、教室行かないのー?」
「給食になったら行く……」
「今戻ればいいのに」
「だって四限目、算数だもん」
「何それ」
「いーのっ、終わるまでここで寝てるっ」
右腕で顔を覆ったまま、左手をぶらりとベンチから垂らす。
その様は無防備と言うか、何と言うか。
締まりのない梨沙子に微笑みを向けると、千奈美は背を向けた。
「じゃ、うちもう行くね?」
「んー」
目を閉じ、真っ暗で何も見えない中で聞こえる千奈美の声。
梨沙子はその声のする方に手を振った。
確かに見えないけれど、千奈美がこちらに手を振り返しているのが分かった。
眠気が、奥からふつふつと沸き立って来る。
何だか起きる瞬間の感覚に似ているそれ。
そう思った瞬間、不意に頭の中にぽんと言葉が弾んだ。
『こんな所で寝てるとちゅーしちゃうぞー』
「キスくらいしてもよかったのに」
後ろで聞こえた声に反応して、千奈美は足を止めた。
「へ? 何か言った?」
「何にも言ってない」
「あれ、気のせいかな……」
「おかしいなぁ」と照れた声。
千奈美は分かりやすい。声だけで感情が分かる。
本当は言ったよ。
あなたなら、本当に「いいよ」って思ったから。
自分から離れていく、テンポのいい足音。
子守唄にもなるそのリズムは、やけに簡単に梨沙子を眠りの国に誘う。
自分の中に甘酸っぱい感情が沸き立ったのを感じながら、
梨沙子はその導きに体を預けた。
そして落ちていく。
視界が白くなる。
白く、白く、真っ白に。
太陽の光の温かさだけが、いつまでも残っていた。