『前髪』
『残念、今日一番運勢が悪いのはおひつじ座のあなた。
親しい人との間でのトラブルが……』
小さな人魂が出そうな間の抜けた効果音のあと、
はきはきとした女の人の声が続く。
たかが占いの話なのに、心底残念そうな声色。
流石はプロ、と言いたくなるくらいの仕事っぷり。
たとえこの人がおひつじ座でも、本気でここまで凹めないと思う。
だって実際、おひつじ座の私は何てことない。
ただ、いつもと同じように、テレビの前でトーストを齧る。
立ったまま食べてはいけないとしつこく言われていたけれど、
中学生になった今、お母さんはいちいち言ってこなくなった。
『ラッキーカラーは赤です』
赤。
何か赤いものを持って行こうかな、と思う。
占いを信じてるわけじゃないけれど、なんとなく試してみたくなる。
辺りを見回すと、キッチンの壁にに引っ掛けた小さな鏡を見つけた。
今日は前髪の調子が悪い。
『そして、今日一番運勢がいいのはおとめ座のあなた!』
今日のピンは赤にしよう。
そう思ってリビングを立ち去ろうとすると、
アナウンサーに引き止められた、気がした。
さっきとは打って変わってご機嫌な口ぶり。
でも、引かれたのはそこじゃない。
「おとめ座……」
短いコメントとラッキーアイテム。
最後にラッキーカラー。
おとめ座の今日のラッキーカラーはピンク。
アナウンサーの明るい声を頭の中で反芻する。
おとめ座。
ピンク。
頭の中に無意識に残る単語。
占い、見てるかなぁ。
『みなさん、今日もいい一日を!』
『……この後は芸能ニュースのコーナー!』
『芸能界に大物カップルが誕生です』
女の人の声が、低い男の人の声に。
さらにその声は、よく聞く芸能リポーターの声になる。
画面に男女のツーショットが押し出されて、はっとした。
CMが流れるテレビの、端の時計を見る。
七時四十五分だ。
「行ってきまーす!」
「行ってらっしゃい」
トーストを少し残して、鞄を引っ掴む。
お母さんが「もう行くの」とか「早くしないと」とか、
ありきたりなことを言うことはない。
家を出ていくのは、いつも必ず七時四十五分。
それも、占いが終わったすぐ後だ。
次の芸能ニュースで気になる芸能人が出ていても、それは変わらない。
なぜなら、このタイミングを逃すと会えないから。
スニーカーに履き替え、玄関のドアを開ける。
小さな門を開くのと同時に、隣の家の玄関が開いた。
いつもと同じように、寝癖一つない髪。
綺麗な横顔に声をかける。
「みやっ」
浅くターンし、鍵を取り出した手を止めて、みやはこっちを向く。
手をいっぱいいっぱいに振ると、少しだけ微笑んで手を小さく振ってくれる。
場所が家の前の道路だったり、逆にみやが先を歩いていても、
反応はいつも一緒。
そっけないけれど、優しい。
軽いけれど、ゼロじゃない。
ほんの少しの反応。
「おはよ」
「おはよっ」
おはようの挨拶は、二人が道路に出てから。
手がつなげる距離まで近付いてから。
でも、手はつながない。
つなぎたいとは思うけれど、いつもと同じ風景に、
いつもと違うことをするのは少しだけくすぐったい。
「梨沙子、今日どうしたの」
「え?」
「前髪」
みやが指を自分の前髪まで持って来る。
指差されたみやの前髪はきちんとセットしてある。
つい、あっと声を上げた。
ピンで止めてこようと思ってたのに。
「え、うねってる?」
「うん」
「ヤバい?」
「ちょっと」
手でまっすぐ、おでこに押さえつける。
必死に髪の芯をなぞるけれど、癖の付いた前髪はそんなに簡単じゃない。
整ってないのが、額からの感覚で分かる。
ため息を付こうと息を吸った時、みやの声がした。
「はい」
「え?」
「貸してあげる。返すの、明日の朝でいいから」
自分の前髪を睨んでいたのを、みやの顔に移す。
綺麗な瞳から、腕を伝って、指先。
子供っぽくも大人っぽくもない、けれど見慣れた指の間にピンが挟まっていた。
いつも胸ポケットに収まっている、目の覚めるようなピンク色のピン。
「いいの?」
「だってそんなんじゃ学校行けないじゃん」
どけて、と小さく言われ、手を前髪から離す。
一昔前のマンガのヒロインのような、くるりと歪んだ前髪。
それらをみやは手早くまとめ、ピンで止めた。
視界の端に、明るい色がちらつく。
違うよ。
ピンク色はおとめ座のラッキーカラーなんだよ。
おひつじ座のラッキーカラーは赤なんだよ。
でも。
「……ありがとう」
ちらりと過った赤とピンク。
羊と女の人。
アナウンサーの声。
それらを全部流す。
占いってやっぱり当たらないんだ。
親しい人とのトラブルどころか、みやはこんなに優しく笑っている。
赤いピンは忘れてしまったし、代わりに来たのは明るいピンク色だけれど。
今、私はこんなに幸せ。
「今日ね、おとめ座占い一位だったよ。見た?」
「え、マジで? やった!」
「おひつじ座一番下だったけど……」
「あ、だから前髪うねってたんじゃん?」
ピンク色のピンに抑えられた前髪を指差して、みやは笑う。
そのほっぺは、淡い赤色をしていた。