Loup et lapin



狼と兎



私が狼だと気付いてる?





『Loup et lapin』





「桃」


声で、何となく違和感を感じた。
些細なことが引っかかり、少しの異変も分かり合える仲ではない。
分かるのはきっと、桃子側からだけ。


振り向いて、その違和感が間違いではなかったことを知った。
本人が気付いているかは分からないが、目が半開きである。
とろんとした瞳が朧げに自分を見ている。
雅はふらふらと桃子の側まで寄ると、右手に抱えた袋を差し出した。


「これ、この間借りたマンガ。ありがと」
「ああ、うん」
「最新巻出たらまた貸して?」
「うん、いいよぉ」


桃子は腰掛けていたソファから立ち上がり、
雅から袋を受け取った。
貸した時と袋が変わっている。
買った時に入れてもらった本屋の袋が、ブランド服の袋になっていた。


思わぬ特典がついてきたなぁ、と桃子はまじまじとそれを見ていた。
気付いたのか、雅は申し訳なさそうに本屋の袋をなくしたことを告げる。


「ごめんね」
「え、何で、こっちの方が全然いいもん!」
「そぉ?」


雅が安心した笑顔を浮かべる。
どこか疲れた笑顔だった。
桃子はぐっと距離を詰め、雅の顔を覗き込んだ。
っ、と声にならない声を出し、雅は一歩引く。


「な、何!」
「みーやん、疲れてる?」
「え?」
「なんか、そう見える」
「そうかな」


首を傾げ、目頭をこする雅。
その様子を黙って見る桃子に、雅はあー、と声を出した。
思い当たる節があるらしい。


「昨日、夜中までメールしてたからかも。だからちょっと寝不足で」
「メール?」
「うん。うち、なかなか切れないんだよねー」


納得する。
雅がメールや電話に夢中になるのは、何となく分かった。
眠たくてもメールを打っているうちに、
眠たかったことさえ忘れそうなタイプだ。


メールの相手は学校の友達だろうか。
今日顔を合わせた全員の中で、
雅のように眠たげな様子を見せたのは誰もいなかった。
桃子の知らない、学校の雅。
それを知っている学校の友達が、少しだけ羨ましくなる。



自分が雅の全てを知っているわけじゃない。
知れないことも分かっている。
桃子だけじゃない、誰にだってそんなこと不可能だ。
雅のことを全て知っているのは雅本人だけ。
なのに、そんな当たり前の理に嫉妬する。
雅の全てを奪取したくなる。



雅の全てが奪えないなら、


せめて自分が雅の視界に入っている瞬間だけでも。



独占したい。
子供じみた欲求だった。
桃子は唐突に雅の左手を取った。
そのまま、ぐいと引き寄せる。



「みーやん」



甘い声で呼んでみる。
手を引かれ、雅の体は桃子のほうへふらついた。



一瞬交わす視線と視線。
絡み合った瞬間、きっと雅は全てを悟る。
いや、桃子が悟らせる。
嫉妬を前面に押し出した視線は、雅に伝わるはずだ。


雅は顔を赤くして、腕を振り払う。
体制を立て直すと、文句の一つでも言おうかと口を開くだろう。
しかし桃子はその唇をキスで塞ぐ。
勢いよく唇をぶつけるけれど、その後は甘いキス。
口付けが綻んだら、桃子は雅に抱いた小さな嫉妬を明かそう。
明かしてもどうこうなるわけではない。
ただ、雅を照れさせ、困らせたいだけだ。



桃子の頭の中に、数秒後の世界が見えた気がした。
描いた通りに、狂うことなく、桃子は動く。



はずだった。



「えっ」



ふらついた体は、自分の意志で立て直そうとしない。
もちろん、桃子の腕を振り払うこともしなかった。
それどころか、力なく肘を掴まれる。
雅の体がどんどん桃子に近付き、触れた後は重さを増していく。
抱きつくように倒れ込んだ雅の目が、閉じているのが見えた。



「ちょっ、み、みーやんっ」



バランスを崩し倒れそうになる雅の脇腹を、桃子は慌てて掬った。
まるで人形を抱えているようだった。
力無い雅の体は何の遠慮もなく、桃子に体重を預けてくる。
雅の体重が重いわけではないし、桃子が非力なわけでもない。
けれど背丈の違う二つの体。
追い込まれるのは桃子の方だった。


とりあえず、ソファに寝かせよう。
桃子は自分の隣に位置する、さっきまで座っていたソファを横目で見た。
腰に回した腕が服で滑り、雅の体がずるずると下がっていく。
今度は地肌に腕を回して、もう一度抱え直した。
一瞬、ぐらりとバランスが崩れる。
ほんの一瞬。
すぐに体勢は立て直せたはずなのに、桃子の足がかくんと崩れた。



首筋に柔らかい感触。



「んっ」



自分が反応し、曇った声を出すのが聞こえた。
バランスが崩れたその一瞬で、雅の唇が首筋に触れたのだ。
思いもしなかった感触に、背筋が疼く。
体から力が一瞬で抜けた。


倒れ込んだのが二人揃ってソファの上だったのは、
執念だったのかもしれない。
ソファのスプリングがお尻の下で軋んでいた。



「……やられた」



桃子はため息をつき、額に手を当てる。
完全に予想外だった。
加えて、事故で触れた雅の唇に反応してしまった自分が恥ずかしい。
こんな格好悪い所、とても見せられない。
雅が起きていなくてよかったと思う。



起きていなくて。



はっとする。
慌てて自分の膝に収まる雅を抱きかかえた。
桃子が雅をお姫様抱っこしているような体勢。
いつもの雅だったら顔を真っ赤にして騒ぐだろう。
しかし、今日はそれでさえない。


「ちょっ、みーやん?」
「……桃」


雅は目を閉じたまま、薄い声で言った。
返事が返ってきたことにとりあえずほっとする。


「大丈夫? 今誰か呼んでくるから」
「いい、平気」


雅はゆっくりと桃子の首に腕を回す。
ぎゅっと抱き寄せられたのは、どうしてだろうか。
桃子を安心させたかったのだろうか。
雅の体温が溢れ出す。



「多分、貧血だから。大丈夫」



大丈夫。



言うなり、雅は寝息を立て始めてしまった。



すうすうと静かに呼吸する雅の腕をそっと解く。
雅から抱きしめてもらうなんてそうそうないことだから、
もったいない気もした。
けれどこのままじゃ雅がゆっくり休めない気がしたのだ。
こんなにころっと眠ってしまったのだから、そうとう眠たかったのだろう。
桃子は雅の手を下ろさせ、自分の肩に凭れさせる。


腕の中で眠る雅に、桃子はただ目を落としていた。
額から眉、目、鼻筋。
唇で視線が止まる。



「……無防備だなぁ」



さっきまで無性にキスがしたかった。
そしてその欲求は消えたわけではない。
いわば、今の桃子は獣なのだ。
なのに獲物はというと、目の前で寝息を立てている。


桃子は雅の頭を持ち上げた。
そして、顔を寄せる。
一度は目を閉じたけれど、
雅の吐息を感じるとなぜか瞼を開いてしまった。



キスしにくい。



油断している唇を急に捕まえたり、
暴れ回るのを押さえて強引に口付けることは何度もあった。
逆に、こうして無抵抗の雅にキスをすることの方が少ない。
それはどうなのかと自分でも思うが、それが桃子と雅の『普通』なのだ。
普通以外のことをすると、どうしても違和感が付きまとう。
それどころか、悪いことをしている気にさえなった。


桃子は意味もなく深呼吸した。
何を遠慮する必要があるのだろう。
別にキスくらいどうってことはない。
それにされたくないのなら、こんな所で眠らなければいい。
責任があるとしたら雅だ。


顔にかかった前髪を、桃子はそっと掻き上げた。
何の引っかかりもなく、触るだけで心地いい。
邪魔するものはなにもなくなった。



「……っ」



けれど、逆効果だったかもしれない。
顔がよく見えるようになると、さらに桃子の手は止まる。
安心し切った雅の寝顔。
それは桃子を信頼している証にも見える。
心の中でむくむくと罪悪感が膨らんでいくのが分かった。



警戒心がなさすぎるのは罪だ。
雅は自分が桃子に欲されていることを理解しているのだろうか。
いや、きっとしていない。
理解していたら、こんな所でこんな表情を浮かべて眠りはしない。



「桃……」



寝ぼけた雅の声に、喉の奥が詰まる。
息苦しい。



またそうやって、無防備に名前を呼んで。



「……仕方ないな」



愛しい。


雅が愛しい。


けれど今はキスよりも。



桃子は持ち上げていた雅の頭を、そっと自らの肩に乗せた。
細い肩を抱き寄せると、
雅の温もりがそのまま伝わってくるようだった。



抵抗のない兎を食べるのは性に合わない。



だから今は、ただ抱きしめていてあげる。



追いかけっこは、君の目が覚めてから。




「……覚悟しといてよね」




正々堂々と、ね。





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