心のどこかでは感じてるの。
あなたの心が、私から離れていくのを。
でも、ずっと見ないふりしてた。
だってそれって、捨てられるって事でしょう?
『黒揚羽』
「何か用?」
マンションの部屋の一室。
私の部屋に静かに入って来たあなたに、私は言った。
あなたがメールを送ったのは、ほんの一時間前。
いや、一時間も前。
窓の向こうは既に深い眠りにつき、ネオンの光だけが忙しく光っている。
「何拗ねてんの」
そっと後ろから頬に触れる、あなたの手。
細い指が滑った跡が熱い。
汚れのないあなたの全てが、
汚れきった私の全てを蝕んでいく。
それが痛くてたまらないのに、
私はまだ、あなたから離れる事が出来ない。
「拗ねてなんか、ないよ」
私はあなたに背を向けたまま答えた。
夜の漆黒の空気が、何の輝きもない部屋のなかに流れ込んでいる。
その空間の中では、あなたの声がよく響く。
私の心に。
「もしかして、亀との仲、疑ってるの?」
ぴくん、とはねる私の体。
図星を突かれた証拠。
あなたは、「呆れた」と言いたげにため息をついた。
「だから前にも言ったじゃん。亀とはそういう仲じゃないって」
「嘘だ」
「嘘じゃないってば」
だって、あなたはいつも楽しそうに笑ってるじゃない。
あの子と幸せそうに戯れ合ってるじゃない。
危なっかしいあの子の面倒を、喜んでみてるじゃない。
少し前まで、そのポジションは私のものだったのに。
「嫌い」
嫌いよ。
「愛ちゃん?」
私を呼ぶ、あなたの声。
「嫌い!」
喉が弾かれそうな強い声。
心が痛い。
あなたはあの子が好きなのよ。
それを、あなたが分かってないだけ。
「愛ちゃん!」
私のよりもきつい声。
本能なのか。
私はびくっと怯え、あなたの方を向いた。
あなたは怒りに満ちた顔で私の肩を突き飛ばしていた。
体が後ろに倒れていく。
もたついた足が、あなたの足と絡んで、
私とあなたは一緒にベッドに転んだ。
弾む心臓。うるさい鼓動。
心は重いはずなのに、身体は緊張している。
この状況に。
「何勝手に誤解してんの」
近くに寄ったあなたの顔。
最近綺麗になったね。
私の毎日は、そんなあなたでいっぱいなのに。
いつも、心苦しい。
「嫌い……」
あなたの綺麗な顔が嫌い。
あなたでいっぱいの毎日が嫌い。
でも、それって。
「愛ちゃん……」
傷付いたのかもしれない。
あなたは少し顔を歪めた。
違うよ。
嫌いなのは、結局私自身じゃない。
それを認めたくなくて、あなたを嫌いだと言っているだけ。
逃げてるんだ、私。
「本当に、あたしの事、嫌い?」
まっすぐな声で聞くあなた。
その声でさえも、今は逃げ出す私を後押しする材料に過ぎない。
私は目を閉じた。
また、逃げた。
真っ暗になった視界。
唇に温かい感触。
あなたの唇だと気付くのに時間はかからなかった。
そういえば、相手が目を閉じたら口付けの合図。
そんな約束をした事があった。
まだ、覚えててくれたんだ。
変に律儀なところがあるあなた。
そこも含めて、私はあなたを好きになった。
そのあなたがいま、離れていってしまうのを感じているのに。
不思議。
こうして口づけていると、何もかもがどうでもよくなる。
心に積もっていたわだかまりも、
亀裂の入った距離も。
全てが満ちていく気がした。
私は麻痺させられているんだろうか。
あなたが、唇に毒を塗ってきたのかもしれない。
その毒によって、私はあなたの都合のいいように
動かされているのかな。
私は駄目だよ。
どんなに黒くなっても誇らしく飛ぶ、揚羽蝶のようにはなれない。
愛されたいの。
どんなにくだらないと思われても、愛に満ちた人生がいいの。
そう。
愛に満ちた人生がいいんだよ、ガキさん。
唇が離れたら、私はあなたに何て言おう。