ひとつ



またひとつ



刻まれていく





『傷跡』





雅の目の前には雅がいた。
薄い、一枚の鏡を隔てたその向こう。
何もかもそっくりなもう一人の自分を、雅は眺めていた。
お互いの視線はどこか虚ろで、双方とも縋るように視線を絡めていた。


生まれた時の格好で立ち付くしても、生まれた時とは違う体。
それは十五年の月日で成長したことだけが理由じゃなかった。
雅は掌を持ち上げる。
自らの首筋を、そっと撫でた。


特別色白な方ではないけれど、
自分の体が白く浮かんでいるように見えた。
光の加減だろうか。
暗闇のバスルームの中、手元を照らす小さな電球。
雅の頭上にあるそれだけが、唯一の光。
その光を受けて光る白い体。
ぽつぽつと浮いている、赤い色。




傷跡。




首筋にキスマークを付けられたのは初めてだった。
雅が付けないように求めていたし、
桃子もそれを知っていて避けてくれていた。
その証拠が、肩より下だ。
たくさんの赤い色が、鎖骨に押さえ込まれるようにして付いている。
唯一収まらなかったのが、首筋に這った「それ」だ。


赤色はキスマークだけではない。
肘から手首、腿のあたりには、強く握りしめた手の跡がある。
唯一色を持たないのは爪の跡だった。
桃子は爪を立てることはあっても、大抵血をにじませない。
桃子の爪が短いせいだとは思うが、
もしかしたら気を付けてくれているのかもしれない。


雅は一つ一つ、事の名残であるそれらを指で追っていく。
指が腹のあたりを滑ったところでやめた。
下半身には、もっとたくさんの跡がある。
一つ一つ追っていったのでは時間が足りない。
もうすぐ夜明けだ。



「みーやん」



乾いた音がして、扉が開いた。
自分の裸体を隠す事はしない。
声の主が入ってこない事を、雅は何となく悟った。


「桃、行くね」
「うん」
「今日、がんばろ」
「うん」


軽くやり取りをし、再び扉が閉まる。
その奥で、もう一枚扉が開く音がした。
桃子の部屋は、丁度隣だった気がする。


雅は傍らに放ってあった白いシャツを羽織った。
襟元を手だけで止める。
首のキスマークは隠れなかった。



今日は朝から予定が入っていた。
出発までの時間、雅は根気よく温かいタオルで傷をほぐした。
けれど色が多少薄くなっただけで消えない。
結局雅は、首元に絆創膏を一枚張り付けておいた。



体に傷が増える事は嫌いじゃない。
もちろん、今回のように見える所に付けられるのは困るけれど。
見えない所に赤い色が垂れるたび、どこか満たされる自分がいる。
傷を意識するたび、桃子を思い出す。
傷をつけた張本人だ。


思い出せるものがあるのはいい。
いつでも繋がっているような、そんな安心感が持てる。
それが自分の体に刻まれているとしたら、なおさらだった。



「あれ?」



少し出来た休憩時間。
自分に向けてかけられた声に、
雅はファッション雑誌から顔を上げた。
携帯を片手に持った友理奈が、不思議そうな目でこちらを見ている。


始めは雑誌に反応したのだと思った。
昨日発売のものだったからだ。
しかし、友理奈の口が開く寸前、人差し指が立てられた。
首元に向かうそれを見て、質問の内容を悟る。


「首、どうしたの?」
「ちょっとね」


自分の首を人差し指でなぞる友理奈。
ついつられて、雅も自分の首をなぞる。
友理奈にはない、絆創膏の引っかかりが触れた。


言葉を濁せば怪しまれるのは分かっている。
けれど、上手い返しが雅の頭の中に出てこなかった。
友理奈の表情が強ばっていくのを見て、
少しだけ嫌な予感が過る。


「も、もしかして自殺とかじゃないよね!?」
「へ?」
「だってよくドラマとかで、首切って……」


眉を下げて慌てている友理奈。
言われてみれば、首に絆創膏をしている姿を見て、
そう錯覚しないこともない。
雅は慌ててそれを否定する。


「違うよ!」
「だ、だよね……?」
「うん、当たり前じゃん」


へら、と作り笑い。
友理奈も引きつった笑いを浮かべていた。
笑い声が途切れると、友理奈の視線が問いかけている事に気付く。



じゃあ、何?



「これは」



言葉が止まる。
あからさまにキスマークだとは言いづらい。
雅は目を泳がせながら言葉を探す。




「愛の証だって、信じたいかな」




言った声が、自分でも驚くほど柔らかかった。
思いつきで言ったせいで日本語がぐちゃぐちゃだ。
友理奈は再び小首を傾げる。
深く言及されては、間もなくぼろが出る。


「愛の証?」
「えと、それは……」
「くまいちょー」


しどろもどろした雅の声に被さる、高い声。
微かに反応した自分に、複雑な感情を抱く。
視線を移した先から、桃子が駆け寄ってきていた。
手に紙を持っている。


「なにー?」
「今日の部屋割り。くまいちょーは……、キャプテンと一緒ね」
「あ、今日は相部屋なんだ」
「うん。泊まるとこ昨日と違うみたいだから」


急に現れた桃子は、あっという間に会話の主導権を握る。
置いていかれた形になってしまった雅は、
友理奈と桃子を交互に眺める事しかしなかった。
とりあえず話が逸れてよかった。


自分も部屋割りを聞こうかと口を開こうとしたとき、桃子と目が合う。
音もなく、笑われた。
予測する。



「みーやんは、桃と一緒だよ」





やっぱり。





「……ねぇ」



事の後は、どことなく気怠い。
水の中で運動し、陸に上がった時とどこか似ている。
快感でかき消されていた疲れは、快感が途切れた時唐突にのしかかる。


「何?」
「昨日、首に付けたでしょ」
「何を?」
「……キスマーク」


雅が首をなぞった手を、桃子は不意に取った。
上目遣いの目線が、悪かったと謝っている。
けれどその目線は雅の心臓を高鳴らせることしかしなくて、
雅は慌ててそっぽを向いた。目を逸らす。


「今日仕事に入ってから気付いて。
 やっぱりあれ跡になっちゃってたんだ」
「なっちゃってたんだ、じゃないよ、もー」


熊井ちゃんにまで心配させちゃったし、と加えようとするが、
桃子からのキスで阻止される。
儚く、溶けるような口付け。
事後のキスは、いつもどこか夢心地だ。


少し油断した隙に舌が差し込まれる。
巧みに動く桃子の舌に、雅の舌が引っ張られていく。
唇と唇の間から熱い息を吐くと、キスは終わった。



「ごめんね?」



また、上目遣い。
意識してやっているのだろう。
無意識だなんて思いたくない。
だとしたら怖すぎる。



「……いいけど」



きっと顔が赤い。
暗い部屋の中では分からないと思いつつ、
雅は桃子に背を向けて寝転がった。
赤い顔を隠す。


ぎし、とベッドのスプリングの音がした。
沈んだわけではない。浮いたのだ。
桃子がベッドから降り、
伸びをしているのがその振り絞るような声で分かった。


「水飲んでくる」
「うん」
「みーやんは?」
「別にいいよ」
「あんなに声出したのによく喉渇かないね」
「うるさいな」


ベッドを回り、桃子が視界に現れる。
暗闇の中でゆらりと動く影は、そのまま水通に向かおうとはしなかった。
部屋の壁際、雅のベッドと空いた桃子のベッドの真ん中にある
背高のっぽのスタンドに、桃子は手を掛けた。
何をするのか聞く前に、部屋にわずかな灯りが灯る。
雅は慌ててシーツで体を隠した。


「ちょっ、いきなり点けないでよっ」
「今更隠す事もないじゃん」
「っていうか、桃何か着てっ」
「だから、今更隠す事もないでしょって」


灯ったスタンドのせいで、桃子の姿がよく見えるようになった。
全裸で立つ桃子の姿が、白く浮いて見える。
昨日、鏡でキスマークを追った時、
同じように自分の体が輝いたのを思い出した。


雅は被っていないシーツを一枚、桃子の足下に放った。
隠してくれないと目のやりどころに困る。
自由すぎる桃子。
雅と視線が絡むと、ふっと笑ってシーツを取り、腰に巻いた。
そして、もう一度笑って雅に背を向ける。



「ちょっ、上も……」



シーツを胸元で固定したまま、雅は起き上がる。
起き上がって初めて、それは見えた。



「あれ……?」



一色違う雅の声に、桃子は首だけをこちらに向けた。


「どうかした?」
「桃、何か、背中に……」
「背中?」
「何か、赤いのが」


一瞬怪訝そうな顔を浮かべた桃子だが、
赤いと聞いた瞬間、気の抜けた顔になる。
あぁ、と口から漏らすと、何も言わないまま水道に向かってしまった。
見えなくなる姿。
水を汲んでいるのが、流れる水の音と途切れ方だけで分かる。


気のせいだろうか。
いや、きっと気のせいじゃない。
雅は確かに見た。
真っ白に輝く桃子の背中に、
赤く小さい何かがいっぱい張り付いていたのを。
それは肩甲骨のあたりに一番多かったけれど、
その周りにも無造作に散りばめられていた。



「これはね」



言いながら、シーツで下半身だけを隠した桃子が帰ってきた。
雅は思わず目を伏せる。
今更、と桃子は言うけれど、大抵事の最中は電気を消す。
灯りのもと、桃子の体を見る機会なんてそうあるわけでもない。


そんな雅を気遣ってか、桃子は雅に背を向けてベッドに座った。
カーテンの向こうを遠く見つめている。
雅からは後頭部しか見えないけれど、何となく分かった。
そして、背中の傷が嘘ではない事を確かめる。


「みーやんが付けたんだよ?」
「へ?」
「耐えられなくなると桃にしがみつくでしょ。
 その時に、みーやんが爪立てるからできた傷」


ひょうひょうと語る桃子。
対照的に、雅の顔からは血の気が引いていた。
否定したいけれど、言われてみればそうかも知れない。
慌てて自分の爪を見てみると、それなりに長さがある。
人の肌を引っ掻けば、十分痕を作れる長さだった。


初めて知った。
灯りを灯した所で桃子を見る事はほとんどない。
だから今まで気付かなかった。
雅の胸の奥が詰まる。息苦しい。


「ご、ごめん……」
「何で?」
「え、だって、こんなにいっぱい……」
「そんな、いいよ」


雅はそっと、桃子の傷に触れた。
赤い色。
小さいけれど、無数にあるせいか痛々しい。


辿っていると、どこか嬉しそうな声で桃子は言った。
そして、コップに入った水を一口飲む。
はぁ、と吐き出された息は、聞いていて気持ちがよかった。



「だってこれは、みーやんがくれた愛の証だしね」



言われて、目を丸くする。
不意に振り向いた桃子と目が合った。
当たり前のように、桃子は唇を寄せてくる。




『愛の証だって、信じたいかな』




キスの間、昼間言った自分の声がリピートされていた。
その間々に、数秒前の桃子の声が入る。
愛の証。
桃子も、同じように思っていた。



今度のキスは触れるだけで、引き際もあっさりとしていた。
けれど頭がぼーっとする。
見つめ合うと、桃子はもう一度キスをしてきた。
もう一度触れるだけの、今度はもっと短いキス。



「それに、桃も負けないくらい傷、付けてるし」



少し動けば、また唇が触れてしまいそうな距離で桃子は言った。
そして、雅の首もとをすっとなぞる。
心臓が高鳴り、甘い疼きが背筋を走るのが分かった。
桃子の声と指先には、不思議な力があるとしか思えない。
雅だけに反応する、不思議な力だ。



経験を重ねるたび、傷が刻まれていく。
それは桃子も一緒だった。
雅にとって、全身に這う傷跡は痛くない。
桃子は、どうなんだろうか。
ふと疑問に思った。



けれど、言わない。


それは、後々知っていけばいいこと。



「うちらは」
「ん?」



雅の呟きに、桃子が首をひねる。
ぼそっと言った言葉が聞こえにくかったのか、
雅の顔を覗き込んできた。





「赤い傷で、繋がってるんだね」





言うと、心が温かくなっていくのが分かった。
柔らかい声。あのときと同じ。
自然に笑顔が溢れた。
一度目を見開いた桃子も、その目をふっと細め、
照れくさそうに笑った。




「そうだよ」




お互いがお互いに付けた赤い傷は、



あなたを愛している証。




「いつだって、繋がってるんだよ」




今宵もまた、傷を付ける。


ひとつ、ひとつ、その身に刻み込まれていく。


赤いそれは愛の証。


真っ赤な傷が、わたしとあなたを繋いでいる。






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