たとえあなたの心の中に、他の誰かがいたとしても。
一番好きなのは、あなたなんです。
『even if』
「ここにしましょうか」
一歩前に出てエスコートしていると、恋人になったような錯覚を覚える。
開いたドアがベルにぶつかり、からんと音を立てた。
夜の街にぼんやり浮かぶネオンのように、そこは明るいが薄暗い。
「へぇ……。雰囲気あっていいね、ここ」
「ですね。れな、カウンターで飲むの初めてです」
「っていうか、未成年がこんな所来てていいの?」
「もう、子供扱いせんといてくださいっ」
本当は知っている。
初めて会ったときから、口ではそう言いつつも子供扱いはフリだけだった。
じゃあ止めましょう、なんて打ち切る方が不自然で。
私と藤本さんは、一番奥の席に並んで腰掛けた。
カウンターには一定の間隔でキャンドルが立っている。
仄かに揺れるその火だけが、この店唯一の光のように見えた。
「何にします?」
「れいなのおすすめは?」
「れなだって初めて来たんですから分かりませんよ」
「あ、そうだっけ」
藤本さんは革張りのカバーが付いたメニューを見ながら言った。
メニューにはお酒の名前の他に、甘さと強さが書いてある。
それをなぞりながら、藤本さんは小さくうなっていた。
私はその脇から文字を読む。
「んー、じゃあ、れなはバーボン・バックで」
「何、一丁前にそんなの飲むんだ」
「いーじゃないですかぁ」
「誰もダメなんて言ってないじゃん」
藤本さんのマンションから、駅二つ分の距離にあるこの店。
ここのバーボンがおいしいことを、私は前から知っていた。
偶然見つけたように演技もしたけれど、本当は色々と調べておいたのだ。
ここだけじゃない。
さっき見に行った映画も、待ち合わせしたカフェも、全部シナリオ立てたもの。
別に、準備していた事実を藤本さんに知られちゃいけない理由はない。
しいていえば、いつもの自分はあまりにも藤本さんにお世話になっているから。
二十歳を迎えた大人と、迎えていない子供。
自分から誘った今回くらいリードしないと、
ただでさえ埋まらないその差が広がりそうで。
それと、頼ってほしかった。
頼りがいのある一面もあることを、藤本さんの目に焼き付けてほしかったのだ。
「あ、れいな。来たよ?」
しばらくすると、カウンターにタンブラーが置かれた。
中の液体は琥珀色に輝き、一切れのレモンが添えてある。
藤本さんはそっと、私の方にバーボンを寄せてくれた。
その際に鋭く光る、銀色のリング。
私がその存在に気付いたのは、本当に最近で。
それと一緒に、藤本さんが少し前に恋人を作ったことを知った。
それは、初めての失恋。
けれど、そんなに傷付きはしなかった。
もともと秘めようと思っていた気持ち。
もう少し早く伝えておけばよかったなどという後悔もない。
ただ、少し寂しくなっただけだった。
「じゃあ、ミキはカシスソーダにしよっと」
「え、そんな弱いのでいいんですか」
「明日仕事だもん。れいなだって学校あるくせに」
「そうですけど」
「またサボり?」
サボリじゃなくて遅刻です。
昼からはちゃんと行くんです。
そんな他愛ない話をしていると、すぐに真っ赤なカシスソーダが届いた。
このお店は品物が出るのがとても早い。
私と藤本さん以外に客がいないせいかもしれないけれど。
「最近さぁ、上手くいかないんだ」
「何がですか?」
「仕事。上の人とどうも馬が合わなくて」
カシスソーダを一口飲んで、藤本さんはカウンターに肘をかけた。
タンブラーの中の鮮血のような赤は、何だか藤本さんによく似合う。
「大変ですね」
「本当、学生の方が気楽だよ。もう辞めたい」
「え、辞めるんですか」
「辞めないけどさ」
一瞬、表情が疲れているように見えた。
けれど、それは見間違いだったようで。
それと同時に、藤本さんの視界に私が映っていないことに気付いてしまった。
「それに、この人がいるし」
そこには、細い指に佇むリング。
「何だかんだ言って、ミキがいないとダメだと思うから」
同じ職場だったんですね。
そう、微笑もうとした。
けれど、顔は強ばったまま動かない。
苦し紛れに、私はバーボンを喉に押し込んだ。
今日一日、藤本さんは私のことだけを見てくれていた。
一度だって目を逸らし、ないがしろにしたことはなかった。
だから、気付かなかった。
藤本さんの口から「あの人」の話題が出ることが、こんなに苦しいなんて。
「れいな?」
「……あ、藤本さん、煙草いいですか」
想い人の話は聞きたくない。
それだけが理由で、私はライターを出した。
いつ藤本さんが吸いたくなってもいいように。
藤本さんの役に立ちたくて、持ち歩いていたライター。
せっかくだから、戸手も言うように、藤本さんは軽く笑って煙草をくわえた。
その先に小さな灯を灯す。
「で、明日あるし。十二時にはここ出ないとね」
「そうですね」
「……れいなはいないの? 好きな人」
少しにやついて、藤本さんがこちらを見る。
驚きで、バーボンが喉を通らないかと思った。
そんな話、一度もしたことがなかったから。
明らかに出た動揺に、藤本さんはますます口元を緩ませる。
「いるんだ!」
「いません!」
「またまたー」
「本当ですっ!」
むきになればなるほど、怪しく見えるのは分かっている。
けれど止まらなかった。
どうしようもなく切なくて、感情が心のグラスから溢れ出しそうで。
「本当に、いないんです……っ」
視線を合わせることが怖くなり、私は藤本さんから目を逸らした。
見つめ合えば、本当の気持ちを言ってしまいそうだった。
私は今でも。
あなたが好き。
「はは、ごめんごめん」
くすくすと笑いながら、藤本さんはまた一口、カシスソーダを飲んだ。
気付けばタンブラーの中の液体は、もう三分の一もない。
このバーボンとカシスソーダがなくなったら、
私と藤本さんの時間は終わる。
そう考えると、また胸が苦しくなった。
カシスソーダを見る旅、静かに光る指輪を見る度。
そして藤本さんの顔を見ても、心の痛みは収まらない。
もっと強いお酒を、藤本さんは追加しないだろうか。
「あの人」のことを忘れてしまうくらいに酔って、
ここで寝息を立てないだろうか。
ふと、藤本さんの寝顔に告白する、自分の姿が目に浮かんだ。
凄く女々しく思えて、すぐに頭の中から消した。
こんなことを考えるなんて、もうかなり酔ってしまっているのかもしれない。
病は気からと言うけれど、酔いも同じなんだろうか。
思った瞬間体が熱くなって、ふらっと視界が揺れる。
「れいな?」
隣で聞こえる、藤本さんの声。
愛しい声。
「藤本さん……」
口に出したのは、それだけ。
後の言葉を、残りのバーボンと一緒に飲み干す。
喉を伝うそれらは、何だかもの寂しげに感じた。
感情が戻ってこないように深呼吸し、頭をカウンターに横たえる。
「れいなってば酔ったの?
だからもっと弱いのにすればよかったのに、大人ぶるから」
違うんです、藤本さん。
酔ったのはお酒のせいじゃなくて、あなたのせいなんです。
飲み込んだ感情が、一人私の中だけで答えた。
バカだなぁ、と言いたげな笑顔で私の頭を撫でる藤本さん。
私はキャンドルより朧げな意識で時計を覗いた。
たとえ他に思う人があっても、かまわないと思っていた。
でも、それができるほど私は強くなかった。
この店に鍵がかかったなら。
このまま終電を超えてしまったなら。
カシスソーダが飲み干されないまま、時が止まったならいいのに。
タンブラーに口を寄せる藤本さん。
十二時三分前を差す時計の針。
二つのタイムリミットが、幻想の終わりを告げようとしていた。