最近、自分が嫌いです。





『After the favor』





一世一代の告白は、見事とはいかないけれどかろうじて実った。
姿形がどうであれ、晴れて夢にまで見た恋人同士に慣れたのは事実。



「いい、けど。……うち、そんなに上手く付き合えないよ?」



少し顔を赤くして、素っ気なく呟かれたのは一週間前。
忘れもしない、駅の改札の前だった。



ずっと前から雅が好きだった。
一日が、雅だけを見つめて終わった。
会える時がいつも楽しみで、別れ際はいつも辛かった。


上手い下手なんてどうでもいい。
自分の気持ちを受け取ってくれれば十分。
恋人同士になれるなんて、幸せすぎて今後の人生が怖いくらい。
でもどんな不幸が待っていても、雅の隣を歩く権利を手放す理由にはならなかった。




恋人になれた以上、片思い時代より辛いことなんてないと思っていた。




「ねぇ、ちょっと見てこれー!」
「何これヤバい、超可愛い!」
「え、どこで見つけた!?」
「新しく出来たとこ、ほら、駅前の……」
「ね、お揃いにしてもいいー?」



数メートルの距離が、いつも以上に遠く感じる。
嬉しいはずの雅の笑顔が、胸をきりきりと締め上げる。


いつも普通に見る光景だ。
そのたび梨沙子はにやけるのを必死に堪えながら、
雅の横顔を眺めていたはずなのに。
今はどうしてか辛い。
満たされない心が、胸の奥に力なく転がっている。



上手く付き合えないといった雅は、本当に全てがへたくそだった。
梨沙子と恋人同士になったことは秘密で、
みんなの前でそれらしい素振りは見せられないと雅は言った。


その時はオッケーを貰ったことに浮かれていたし、
『みんなには内緒』という響きが、どこか背徳感を背負っていてかっこいいと思った。
あの時それを了解しなかったら、何か変わっていたのだろうか。
梨沙子は考えてみるが、どうしてもいい方向に向かない。
きっと「じゃあ無理だ」と言われ、梨沙子の告白は散っていたに違いない。



「はぁ……」



無意識のうちにため息が出る。
幸せが逃げていく。
思い描いていた恋人生活はこんな風じゃなかったのに。
思うたび、切なくなる。


みんなには内緒。
それは、みんなの前では何一つ変わらないということで。
二人きりになる時間も少ない今、全く何も変化がないことに等しい。
あの告白はなんの意味があったのだろうと、
梨沙子は少しだけ惨めになった。


雅が悪いことをしているわけじゃない。
だって雅は考えていつも通りの生活を送っているわけだ。
ちゃんと梨沙子の了承を得て。
何も悪いことはしていないと分かっているのに、心の奥が釈然としない。


その笑顔を自分だけに向けてほしくて。
その笑い声を自分だけに聞かせてほしくて。
子供じみた独占欲に振り回されている自分。
そんな自分が最近嫌い。



「みやっ」



苦しい胸の痛みを何とかしたくて、梨沙子は雅を呼んだ。
縋るような声が出たのに、自分でも驚く。
もちろん雅や、その周りにいたメンバーも驚く。
雅の返事が、少し引きつっていた。


「何、梨沙子、どうかした?」
「来て」
「ちょ、えっ」
「いいからっ」
「あ、みんなごめんっ」



雅の手を掴むと、強引に引っ張る。
始めは抵抗があったけれど、みんなに謝る声の後は移動が楽になった。
後ろは振り向かない。
ドアを開けて、そのまま進む。
開いたままのドアは雅が後ろ手で閉めた。



姦しかった楽屋と一変、廊下は静寂に包まれていた。
響くのは二人分の足音だけだ。
唯一繋がる手を離すのに躊躇う。
このままどこかに抜けてしまえればいいのにと思った。



「梨沙子」



呼んで、雅は立ち止まった。
進もうとする梨沙子の左手と、ぴたりと止まった雅の右手。
別の行動をとった二つの手は宙で弾け、お互いの元に垂れ下がる。
自分の名前を呼んだ雅の声が、周りの空気を反響させていた。
いや、反響していたのは耳の奥だけでかもしれない。


「何怒ってるの」
「怒ってない」
「みんなびっくりしてたじゃん、何でいきな……」
「みやはっ」


強い声。
やっと二人きりになれたのに、
その事実がよくない意味で梨沙子を無防備にする。
ずっと溜め込んでいた感情が溢れていくのが分かった。


止めたいのに、止められない。
言ってはいけないと分かっているのに、声が喉を這い上がる。



「みやは、誰と付き合ってるのっ……!」



言いながら思う。
最低だ。
振り向かなくても、声を聞かなくても、
雅が困っているのが分かる。


でもずっと聞きたかった。
何の変化もない毎日の中で、
あの告白が幻だったんじゃないかと思った時もあった。
幻だと言われても驚かない。
それくらい一週間音沙汰もなかった。
もし告白がなかったことなら、もう一度するつもりだった。
けれど雅は真実を口にする。


「梨沙子、だけど」
「だったら、ちゃんと! ……そうやって、あたしを見てよ」


ほっとするのもつかの間、言葉だけが勝手に宙に舞う。
恋人になった事実が本物なら、自分の告白はその程度のものだったのか。
何もなかったと勘違いできるほど、ないがしろにできるものなのか。
悔しくて、悲しい。
雅が好きすぎて、苦しかった。



抱きしめてほしかった。
ごめんね、と呟いて抱きしめてくれれば、いとも簡単に許せた。
だけど現実が梨沙子を夢から叩き起こす。
自分の落ち度を、鋭く突きつけて来る。



「分かるけど……、でも、みんなもいるんだよ?
 軽はずみに行動して、みんなの輪を崩すことは、できないよ」



雅が一つ一つ、言葉を丁寧に選んでいく。
それが分かるから、痛い。
気を使わせている。
気付いているのに、心が逃げ出そうとしている。


距離が、遠退いていくのが分かった。
心の距離なのか、それとも実際の距離なのか。
それさえ分からないほど、感覚が麻痺している。
雅に対する愛しい気持ちと、自分に対する憎悪に似た思いがぶつかり合う。




「そういうのは、困るよ……」




遠回しに。



でも、確実に。



肩を突き飛ばされた感じがした。




もちろん、現実には距離がある。
実際突き飛ばされたわけではないけれど。
遠退いていくように感じた距離。
それが、雅が後ろへと進んでいるからだと気付いてしまった。




困る。



そうかもしれない。



こんなに嫉妬深くて、醜くて、わがままで。



私でさえ愛せない私。




愛しい人に愛されなくて、当然だ。




「……っく」




全く意識しなかったし、気配も感じなかった。
なのに実感した瞬間、喉の奥から嗚咽が漏れる。
泣こうなんて思わなかった。
むしろ、泣くなんて面倒に思われること、絶対にしないでおこうと思っていた。
梨沙子は慌てて、溢れ出した涙を拭う。
けれど止めようとすればするほど、涙が止まらない。


肩の揺れと殺された泣き声。
さすがの雅も気付いたらしく、慌てた足音が聞こえた。


「ちょっ、梨沙子」
「なんでもないっ」
「なんでもなくない、泣いてるじゃんっ」


掴まれた肩を思い切り振り、手を弾き飛ばす。
けれど雅の手は何度も梨沙子の肩にまとわりついて来た。
こんなに素敵な人の恋人であるはずなのに、自分はそれに値しない。
雅と天地の差があると思い込んだ梨沙子は、
決して雅に向き直ろうとしなかった。



どうしてこんな風になったんだろう。


どうしてこんなに弱くなってしまったんだろう。




「梨沙子っ!」




これまでにない強い力が、梨沙子の肩をぐいと回した。
勢いのせいで足下がもたつき、体が百八十度回る。
一瞬絡んだ視線に嗚咽が止まる。
梨沙子が好きな、綺麗な瞳。


弾けるような声が、まだ耳の奥から消えない。
梨沙子は反射的に目を閉じていた。
雅の顔が近付いて来ていた。
呼ばれた名前の残像を聞きながら、唇にキスが落とされる。


ずっと待ち望み、身を焦がして来たキス。
もっと深く。
もっとたくさん。
手に入れた瞬間、生まれるであろう欲求は微塵も浮かなかった。
自然に目を閉じていた。


何も望むことなく、梨沙子は口付けに酔いしれていた。
ただ、雅の唇の柔らかさだけを確かに感じる。


口付けの終わりに、今度はしっかりと視線が絡んだ。
泣かないで。
そう訴える綺麗な瞳は、美しく澄んでいた。
湧き出た感情を実感すると、一度は止まったはずの涙がまた溢れる。




「だって、みやが好きなんだもん……!」




嫉妬するのも、わがままになるのも、
全ての根本はひたむきなその気持ち。
嘘のない言葉と止めどなく流れる涙が、梨沙子を洗っていくようだった。
目元がぐしゃぐしゃで喉も痛いけれど、心だけがどこか清々しく、熱い。
熱く熱く、自分を責める気持ちが洗礼されていく。
こんなに苦しんでいたなんて、泣いて初めて気付いた。



「嫌いにならないで……っ」



手遅れかもしれない。
そう思って付け足した言葉は、どこか苦しげになってしまった。
嗚咽が混ざっているせいで息が詰まる。
語尾の震えた声ごと、梨沙子は抱きしめられた。
一瞬何が起きたのか分からなかったけれど、少しの衝撃と温かさで実感する。



「こんなことで嫌いになってたら、付き合う前に嫌いになってるよ」
「……ぅ」
「大丈夫、ちゃんと好きだから」



肩を握る掌の強さを感じる。
囁かれるように頬に落とされたキスは柔らかい。
果実を啄む小鳥のようだった。
梨沙子の涙が、雅の唇に溶けていく。
時折小さく、肌が吸い付く音がした。



ちゃんと、好き。
嘘だ、と胸の中で毒づく自分がいる。
けれど確かに嬉しくて、素直になれていないだけで。
わだかまりを吐き出しただけではない。
その言葉一つが、苦しみで疲れた心を癒していく。



背中に腕が回り、優しいキスが降り注ぐ。
一つ一つ、触れていることを感じるたび心が温かくなる。
無我夢中で雅を感じる。
雅の髪に指を絡ませ、与えられた分だけキスを返す。
不意に視線が絡み、唇に口を寄せると離せなくなった。
触れているだけじゃ物足りなくて、雅の体を口から侵食する。



「ちょ、待っ」



唇を割って入った舌の感触に、雅は慌てて体を離した。
視界が開けて、雅の向こうの背景が見える。
梨沙子ははっと我に帰った。


「あ、ごめ……」
「や、うちが、ごめん」


場所も考えず雅を求めてしまったことに反省する。
梨沙子が謝ろうと口を開くと、雅に制された。
雅からの謝罪で。




「いっぱい我慢させてたんだね」




雅は梨沙子の頬に触れる。
言葉を交わさなくても、
絡み合う視線だけで求めているものが分かる。



あなたが好きになってくれた私を、
きっと私も好きになる。
飽きるほどの口付けの中で、梨沙子は静かに思った。






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